第70話 間に合わなかった検査データ
とある冬の日の午前診。患者さんもたくさん診て、電子カルテのウェイティングリストも、残りの患者さんがほぼおられなくなった昼過ぎ(おやつ前?)、最後の患者さんのファイルを手にした。メモ書きには
「しんどいとのことで、処置室で休んでおられます」
とのこと。うーん、最後の患者さんがこのように具合が悪いときは、たいてい重症で、お昼ご飯も食べられないことが多い。
「なんか嫌な予感がするなぁ」
と思いながら処置室へ向かう。処置室の看護師さんに
「〇△さんは、どちらのベッドで休んでいますか?」
と確認。ベッドに向かうと、患者さんは全く身動きもせず毛布にくるまっており、まるで亡くなっているのではないか、と思うほどであった。
「CPAになってたらどうしよう」
とびくびくしながら、
「〇△さん、診察に来ました。大丈夫ですか?」
と声をかける。患者さんは本当にゆっくりと反応され、
「しんどいです」
とのこと。お話しするのもとても辛そうで、病歴も取れそうになかった。なので、身体診察、各種検査を行い、病態がわからなかったので1号液500mlの点滴を開始することとした。結果を見て判断しようと考えた。
身体診察を行なう。血圧は100台と低め、心拍は80回とちょっと早めだが、もともとのこの方の脈拍がどんなものだったのか不明であり、何とも言えない。SpO2 99%(RA)、意識レベルは身体がしんどいからか、閉眼して、質問に答えるのもつらそうな印象、JCS-Ⅱ-10程度であった。結膜に貧血、黄疸なし。口腔内は乾燥しているが、咽頭発赤、扁桃腫大なし。頚部リンパ節の腫脹を認めない。心音、呼吸音に異常を認めず。腹部は平坦、軟、腸音は減弱。下腿浮腫は認めず。皮膚は乾燥しており、脱水、という感じだった。
血液検査、胸部レントゲン、胸腹部CT、心電図の指示を出し、検査が終わるのを待った。電子カルテでは検査などで自分のセット項目を作ることができ、以前述べたことがあるように、初期研修の一番最初に高カルシウム血症で痛い目を見たので、私のルーチンの採血セットには電解質にカルシウムを入れている。「羹に懲りて膾を吹く」ということをしていた。
点滴が500ml入ると、脱水が補正されたのか、見違えるほどご本人は元気を取り戻された。なのでようやく病歴が確認できた。
体調不良は1ヶ月ほど前から出現したとのこと。倦怠感が強く、家事をするのもままならなくなったそうであった。近くのクリニックに受診するが、
「疲れがたまっているのでしょう」
と言われ、点滴を受けていたが、全然よくならなかった。何度か点滴をしてもらっていたが調子は良くならず、どんどん倦怠感がひどくなっているので、何とか頑張ってこの病院にやってきた、とのことだった。食欲はないが、のどは乾き、水分は結構飲んでいて、おしっこは結構出ている。以前は便秘傾向ではなかったが、最近は食事をとれていないのが影響しているのか、便秘がひどくなっている。特に身体の特定の部位に痛みを感じることはないとのこと。もともとやせ型だったので、あまり体重は変わりないとのことだった。
検査結果を確認、心電図は明らかな不整脈、虚血性変化は認めなかったが、QTc時間は短縮していた。胸部レントゲンは特記すべき異常影を認めず。胸腹部CTでも、肺野に明らかな病変はなく、腹部にもあまり目立った所見は認めない。
しばらくして採血結果が出た。LDHが軽度上昇しており、腎機能は低下、Creは3以上に上昇していた。カルシウム値は身体診察、病歴から予想していた(初期研修の失敗をちゃんと覚えている)ように著高していた。カルシウム値は16.8(正常なら高くても10程度)。ただ事ではない値である。画像上ははっきりしないが、おそらく悪性腫瘍に起因する高カルシウム血症であろう。外来採血に、各種腫瘍マーカーと可溶性IL-2レセプターを追加した。検査科に連絡し、血液像の目視をお願いしたが、芽球やFlower cell(ATL(成人型T細胞リンパ腫で特徴的な異常リンパ球)は見られない、とのことであった。
とりあえず入院、心電図モニタを装着し、高カルシウム血症の治療を開始した。脱水改善のため、生理食塩水を大量輸液、カルシトニンを投与、ステロイドを開始、困ったことはkey drugであるビスホスホネート製剤をどうするかであった。当然投与を考えるのだが、薬剤添付情報にはCreが2以上の方には投与禁忌との記載がある。
う~ん、非常に困った。悩みに悩んだ結果、一旦使わずに様子を見ることとした(添付文書に反して薬を使用し、患者さんが死亡した場合には、問答を言わずこちらの落ち度となる)。大量輸液をしており、またevidenceには乏しいが、Ca排泄作用があるので、ラシックスも併用した。
翌日(入院第2病日)は、前日よりも元気がなさそうだった。採血は確認しており、Ca値はあまり変わらず15程度。食欲はなさそうだった。Cre値もあまり変わらず、ビスホスホネートはまだ使いたくないところであった。画像所見で明らかな腫瘤影がなさそうなことから、悪性リンパ腫が怪しいと思っていたが、これ!という根拠がないので身動きが取れなかった。
その日の夜に、遠方に住んでいる息子さんが来院された。お母様の病状を説明していると、
「私、実は大学病院に通院しているのです」
とおっしゃられた。家族歴も重要なことであり、
「どんな病気で通院されているのですか?」
と伺う。
「今、特に何か治療を受けているわけではないのですが、定期的に血液内科で経過を診てもらっているんです」
「えっ!?どういうことですか?」
「実は母は長崎県の五島列島出身で、私は白血病を起こすと言われているウイルスを持っているんです。なので定期的に確認してもらっているのです」
とのこと。
なるほど!息子さんとお話しし、当たりがついてきた。おそらく患者さんはHTLV-Ⅰウイルスを持っておられ、今回の症状はATL(成人性T細胞リンパ腫)と、それに伴う高カルシウム血症の可能性が極めて高そうだ。HTLV-Ⅰは、長崎の離島、鹿児島県を含む環太平洋地域に分布しているウイルスである。私の卒業した大学はHTLV-Ⅰの流行地域にあり、たくさんのHTLV-1 関連疾患を発見しており、授業でも、ポリクリでもたくさんのHTLV-Ⅰ関連疾患を勉強した。ATLは京都大学で発見され、HTLV-Ⅰとの関連が指摘された疾患で、発症頻度はHTLV-Ⅰ感染者の数%であるが、発症すると致死率は極めて高い疾患である。
但し、現時点では白血球数の増多もなく、ATLに特徴的なFlower cellも認めない。最初からATLは私の鑑別診断に入れていて、入院時の採血やfollowの採血でもFlower cellの出現の有無に注意して血液像を見ていただくようお願いしていたが、現時点では見つかっていない。
ここが2次医療機関と、1次医療機関としてのクリニックの違いであるが、クリニックでの勤務経験から考えると、クリニックから、
「長崎県の五島列島出身、息子さんがHTLV-Ⅰ既感染の方で、現在高カルシウム血症を呈している」
という情報で血液内科に「ATLの疑い」として紹介すると受け入れてもらえると思われる。しかし、九田記念病院のような大きな病院からの紹介であれば、明らかな客観的根拠がなければ受け入れてもらうのは難しい。ただ、大事なことなので、入院時の採血にATLA(抗HTLV-Ⅰ抗体)を追加でオーダーした。
入院第3病日は金曜日、患者さんに浮腫が出てきた。採血を確認するが、Ca値は17と値がさらに増加していた。ご本人も元気がなく、しんどそうにされている。白血球数は7000程度と白血球増多は見られず。血液像も問題なしとのこと。ラシックスを増量し、治療を継続した。可溶性IL-2レセプターの結果はまだ帰ってこず。Cre値も高値。ビスホスホネート剤の添付文書で「禁忌」とされているので手も足も出ないのがつらかった。おそらくビスホスホネートを使えば、高カルシウム血症はもう少し改善しているのではないか、と歯がゆかった。
入院第4病日は土曜日、私が奈良にある某クリニックに応援に行かなければならなかったので、患者さんの回診ができなかった。同日に患者さんは肺水腫を来し、当直医である師匠が患者さんを診察、利尿剤の増量とビスホスホネートの投与をしてくださったようである。
入院第5病日は日曜日、その日は24時間のER当直であった。私と、チームを組んでいた鷹山先生、初期研修医の先生3人が7:30にERに集まったころ、外科病棟から連絡があった。病棟急変患者さんがおられ、外科当直医の村野先生がCPRを行なっているが、手が足りないので上がってきてほしいとのことだった。
この患者さんも外科病棟に入院しておられたので、もしかして、と思い鷹山先生と二人で外科病棟に駆け付けた。心配していた通り、この患者さんが心肺停止となっており、村野先生がCPRをしてくださっていた。
「村野先生、お手数をかけてすみませんでした。私が主治医なので、CPR引き継ぎます。ありがとうございました」
とお礼をいって、患者さんをICUに転棟。ご家族に至急で連絡し、ご家族が来るまで、鷹山先生と私の二人と、ICUの看護師さんの力も借りて、CPRを継続した。7:30にご家族に連絡し、ご家族は9:00頃に来院。御家族をICUに入室してもらい、CPRをしながら、ご家族に病状説明。1時間半蘇生術を行なっているが、心拍が再開しない。これ以上はお身体をいたずらに傷つけるだけであり、蘇生処置は中止するタイミングだと思うとお伝えしたが、
「もう少しだけ頑張ってほしい、ちょっとでも可能性があれば頑張ってほしい」
と強く希望されたのでもうしばらく頑張ることとした。それから1時間、鷹山先生も私もへとへとになっており、悲しいことに患者さんの背部には死斑が出現してきた。
「長時間蘇生処置を行なっていましたが、心臓は動き出しませんでした。お身体にも、亡くなった方だけに出る変化が起き始めました。もう蘇生する可能性はないと思います」
とお伝えし、同時刻で死亡診断を行なった。
ERで二人、一息ついた後で同日の朝の採血を確認する。白血球は12000と軽度上昇、カルシウム値は20を超えていた。もし、入院当日にビスホスホネートを使っていたら、うまく高カルシウム血症のコントロールがついていたか、もっと早く心肺停止となっていたのか、それはわからない。
当直明けの月曜日、昼過ぎに検査室から連絡があった。外注検査の結果が帰ってきており、可溶性IL-2レセプターは10000を超えており、ATLAは4096倍、血液を得意とする技師のYさんが再度血液像を確認したところ、第3病日(金曜日)からFlower cellが出現していた(シフトの都合で金曜日からお休みを取られていたのであろう)とのことであった。
確定診断は予想通りATLとそれに伴う高カルシウム血症であった。ATLの予後は不良であり、速やかに血液内科に転院していても救命できたかどうかはわからない。ただ、あれだけほしかった検査結果が、患者さんが旅立った後で出そろったのは何とも言えない、やりきれない気分だった。
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