六 自首
「こんにちは。お久しぶりです。高木です。博次さんのことで少しお話が」
「……なにもお出しできませんが。それでもいいなら」
「お構いなく。とにかく大至急のことですので」
「どうぞ」
想定より簡単に入れた。
リビングには長方形の食卓に白いテーブルクロスが被せられ、その両側に椅子が二脚、向かい合わせで置かれている。
日当たりが悪くて、電気もつけてないから不気味だ。
大きなガラス戸からは、昨日見た庭の全体像が見渡せるようになっていて、ちょうどネコを蹴り殺した場所も把握できた。
不思議なことに、その光景はどこか懐かしかった。例えるなら、少年野球で初めてヒットを打った球場に、大人になってから訪れたような感覚だ。
「さっきは、あぁ言いましたけど……やはりお茶菓子くらいは出しますので……」
食卓脇の台所で、女は棚から菓子の袋を取り出したり、なぜか湯を沸かしたり、忙しなく用意をしている。すぐに終わりとはいかなそうだ。
無言の空間に、湯の沸く音と、外で鳴く蝉の声だけが響く。だが、唐突に本来の目的が意識された。その目的の達成が目前であることも思い出され、体中の血液が躍動を始める。呼吸も浅くなり、
這うような歩みでも、ただ気付かれはしないように。
わなわなと震える手が、まだ届かないにもかかわらず、包丁の方へ伸びていく。背後で行われている、包丁と俺との呼応など、この女は知る由も無いだろう。
復讐の実現はすぐそこだ。
さぁ、左手で包丁を掴んだ。すぐさま右手で女の口と鼻を塞ぎ、思い切り左脇腹に刺し込んで、臓器も骨も無視して刃を引き抜く。女はたちまち
死ぬのは、思いのほか一瞬だった。
そして、俺は、立ち尽くして動けなかった。
晴美の死因は詳しく聞いてないが、これと同じように死んでいったのか。だとしたら、殺した後の俺が言うのもなんだが、とても残酷で、無力で、理不尽で、避けようのない運命だったんだな。でも、こうして仇を討ってくれる人間がいるだけ、晴美のほうが幸せだ。
感傷に浸る間もなく、ポケットの携帯が鳴った。
包丁を置いて電話に出る。
「はい。もしもし」
「奥さんの晴美さんと、そのご友人の殺害事件のことで、お伝えすることがあります」
警官は間を置くと、朗報を伝えるように言った。
「犯人が逮捕されました。現場の凶器や他の証拠などと、近所に住む男の情報が一致したんです」
「やはり、三隅だったんでしょう」
「いえ、違う男です。その方は無関係でした。それに加えて、飼い猫も殺された、とおっしゃられていましたが、それは奥さんの晴美さんによるものだと判明しました」
「ん、どういうことです?」
「続きは署でお話ししますので、時間ができ次第、いらっしゃってください」
「あぁ、はい」
電話が切られて、重力に従って下を向く。
足元に転がる、微動だにしない女。
いや、動揺するのはまだ早い。
これは三隅の陰謀に違いない。晴美を殺した男と、マサハルを殺した晴美は、どちらも三隅から何かを
でなければ、俺はただの人殺し。
簡単に、取り返しのつかないことを、取り返しのつかないものとしてはいけない。これには必ず裏があり、俺は陥れられた。いや、待て。だとしても……俺が殺したことに、変わりはない……でも、それも承知で……。
車内。どこかの駐車場。
シートを倒し、返り血を浴びたスーツを脱いで、日が暮れるまで考えた。誰が悪いのか、誰が罪を被るのか。
いよいよ一つの答えに辿り着いた時、その答えを聞いた人間は、呆れるだろうなと思った。それでも、これは正しい。善悪の問題じゃない。俺の結論。このしょうもない茶番に付き合わされた、一番の被害者である俺の言うことが、結局は全て正しいんだ。
結論はこうだ。
この俺こそが三隅だった。今や俺は、人もネコも殺し、首筋をかく癖すらモノにしてる。つまり、この瞬間から三隅が俺で、俺が三隅なんだ。とすれば、俺が裁かれることは、三隅が裁かれることと同義だから、俺は今すぐにでも自首しなければならない。当然、名字は三隅を名乗るし、住所も、嫁の名も、ペットの名前も、全て高木のものは使わない。全て三隅のものを使う。知らないものは忘れたと言おう。今から俺、いや僕は、三隅以外の何者でもないのだから。
じゃあ、早速高木に電話をかけよう。彼に、僕が君のペットも、奥さんも殺した、真の首謀者であったと告げよう。
「もしもし、博次だけど」
「……どうした、冗談か。切るよ」
「冗談なんて言ってないけど……まぁいいや。僕のデスクに今回のプレゼン資料があるから、本番にはそれを使うんだ。しばらく会社に行けないからね」
「それは、どういう――」
高木が何か言いかけるのを無視して電話を切る。車内に血の臭いも立ち込めてきた。それでは、自首することにしよう。
警察署に歩いていくことに決めて車を出る。澄んだ空気を吸いながら歩を進めると、距離に比例して、自分が三隅である自覚が育っていくのが分かった。
それにしても、愚かな嫁の裏切りに遭い、その嫁まで殺された高木という男は、本当に運が無いな。
可哀想に。
◆ 続く
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