四 質量のない感情

 定時。夕方。

 結局、最後まで井上は、俺のイライラした一挙手一投足に目をつむった。

 残業禁止のため、社員は皆帰りの支度を始める。パソコンを閉じたり、鞄に書類を詰めたり、デスクの前で呆然としたりして、各々の動作をこなす。

 倦怠けんたいの空気が満ちたオフィスは、ため息にいぶされるみたいで不快だ。

 こんな光景のせいを前にすると、怒りもちょっと薄れる。

 帰ってからの晩飯や、温かい風呂、晴美の出迎え、フローリングに寝そべるマサハルの姿が浮かんでくる。

 だが、マサハルはもういない。

 この恐怖と悲しみと、怒りの代償は必ず、必ず、コイツに払わせてみせる。よく平然となんかしてられるな。その図太さには心底、感服する。人のペットを殺しておいて、よくも。

 会社を出る。三隅を追おうかとも思ったが、晴美の安否確認が先だ。昼に何件かメールが来てたから、電話はかけてないが……まぁ、大丈夫だろう。


 ・


 我が家の玄関を開けた時、

 いくつかの不穏な要因が、俺に入ることをためらわせた。


 なんで鍵が開いてた?

 なんで電気がついてない?

 少し開けただけで溢れてきた、この臭いは何だ?

 いや、臭いはもう知ってる。今朝の臭い……だ。

 もし、鍵が、偶然、閉め忘れられていて、偶然、死臭が立ち込める原因があって、マサハルの死も全部偶然で、今、家の中に入るために何の警戒もしなくていいなら、それは、ただの現実逃避だ。

 今、この家に、入るわけにはいかない。

 入って何も起きないわけがない。

 俺は家を後にして、最寄りのコンビニの駐車場に停めた。玄関に留まるのは危険だと思ったし、犯人が逃げていたとして、ソイツが戻ってこないとも限らない。

 警察を呼ぶと、警官二人の乗ったパトカーが到着した。警官の一人は老けた強面こわもての男で、もう一人は新人のような若い青年だった。二人は車から降りた俺を見ると、顔を見合わせ、強面がトランシーバーでどこかに連絡を入れた。

 二人に簡単な礼と挨拶を済ませ、家へと案内する。

「ここです」

「では、我々が中を確認してきます。高木さんは、さっきの場所で待機していてください」

 ついていきますと言うわけにもいかず、拳銃に小型のライトを当てがって進む二人を見送るしかなかった。

 ――コンビニの駐車場。フロントガラスから夜の空を見ていた。

 どんよりしている。

 風の音も重たい。

 晴美に送った連絡も返信がない。

 自分はなぜ、一軒家を買ったりしたのだろう。

 夜の雲は、いつもより早く流れていった。

 シートを倒して、眠れもしないのに横になった。

 やっと電話がかかってくる。

「もしもし」

「高木さん。たった今、お二人の女性が亡くなられているのが見つかりました。既に救急は手配しています」

「」

「後日、高木さんにも事情聴取を行います。そして、申し訳ありませんが、この家は只今より立ち入り禁止となります。宿泊できる場所などございますか。もし不安があれば、警察署の仮眠室をお貸しできます」

 警官は淡々と言った。

 返事を待っている。

「三隅です」

「……はい?」

 自然とそう口に出していた。明確な根拠はない。無意識に出た。

「その方とは、どのようなご関係で?」

「幼馴染で、私のペットを殺しました。狂った奴でした」

 ため息が聞こえる。

「なにか証拠はありますか。いえ、今は気が動転しておられるでしょうから、とりあえず寝床を決めてください。どこかアテはありますか?」

「……親戚の家に泊まります」

 それから、警官は個人情報を事細かに聞いた後、通話を切った。

 遠くでサイレンの音がする。

 キーを回してエンジンをかける。もちろん、これから目指すのは親戚の家などではない。アイツは寝ているか。警官に怯えて逃げているか。いや、どこにいてもいい。

 


 夜の町。

 車の数も明らかに少なく、運転は軽やかだ。もちろん、軽やかというのは、心理状況も含んだうえでの軽やかである。

 どうやら、復讐心は質量を持たないらしい。


 アイツの家は知ってる。


 行ったことがあるんだ。





◆ 続く

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