三 何か見失う
オフィスに戻ると、夏休みの取得に失敗した哀れな連中が首を揃えている。
自分のデスクの隣にも、後輩の女社員、井上が座っていた。最近ポリコレにはまっているらしく、仲はよくない。
もう一人、向い斜めにベテランのオッサンがいる。……はずなんだが、チームの仕事は全て俺たちに投げてバカンスに行ったらしい。独身貴族はフットワークが違う。
席につく。自分の汗で、まだ湿っていて温かった。
腕時計と、デスクトップ右下のデジタル時計、オフィスの壁掛け時計と、全て確認した。四十分経っていた。
つまり、三隅が帰るまであと二十分だ。
「あの、高木さん」
「なに?」
井上の声に
「貧乏ゆすりと、キーボードの音、ちょっと抑えていただけます?」
「え?」
気づいてなかった。イライラが出てたか。
「イライラされてるなら、タバコでも吸われてきたらどうです?」
……この状況で苛立たないでいられるか。
そもそも、タバコも吸わない。俺が吸うような奴に見えるのか?
井上は、俺の握られた拳に気づくと、眉をひそめ言った。
「なんですか?早くどっか行ってください」
声がよく通るものだから、否が応でも周囲の視線が集まる。俺はいよいよ立つ瀬がなくなって、そこから逃げた。
薄暗い廊下。
タバコも吸わない俺の逃げ場は、手洗いの個室しかない。
井上の蔑むような目。
周囲の無関心な、それでいて攻撃する気配だけは確かに持っている目。
あまりに理不尽だ。
こっちはペットを殺されて、嫁まで危険に
今日二度目の個室は、たまらなく落ち着かなかった。昔から緊張体質だったが、比にならないほど心臓がうるさい。水中にいるように耳が遠い。
腕時計を見る。
あと五分で三隅が帰ってくる。呼吸を落ち着けろ、関係ないことを考えよう……。
そうだ、もう一度晴美に電話しよう。安否確認だ。
――とはいえ、指が震えて、画面のパターンロックが解除できない。
祈るようにスマホを額にあてて、目をつむる。どうにか、無事でいてくれ……。
「はぁ……はぁ……ゴホッ」
咳。
胃から何かが噴き上がる。
喉が焼ける。
便器の水面を覗く。
口の中で何かが爆発して、塞いだ唇を破ってとび出した。
「おえぇッ――」
俺は盛大に吐いて、それきり意識を失った。
・
目が覚めたのは、同じ個室だった。
夢の中で、一輪の花を、うずくまるように守っていた。すると、その花が俺の腹を貫いて、目が覚めた。
夢と同じ姿勢。臭い床にくの字でくたばっていると、ポケットでスマホが震えている。誰からだろう。
なんとか体を起こし、壁にもたれて、電話に出た。
「もしもし」
「××警察署の△△と申します」
「はい」
マサハルの進展があったのだろうか。
「一時間ほど前に、高木 晴美さんとそのご友人が強盗被害に遭われましたので、その聴取の日程を決めるためにお電話させていただきました」
男か女か分からない声で、淡々と続けている。強盗だの聴取だの、コイツは何を言ってるんだろう。マサハルの話はどうした。
「はぁ。そうですか」
「先ほどもお伝えしましたが、お二人を殺害した犯人は逃亡中です。逮捕のため尽力しておりますので――」
通話を切る。
結局のところ、人違いだろう。
画面を見ると、時間もかなり経ってしまっている。
気を取り直して晴美に電話をかけると、早々に繋がった。
「晴美無事か? 三隅は来てないか? 」
「だから、もう亡くなりましたってば」
さっきの声。そして、こっちの返事も待たずに一方的に切られた。
こうなったら仕方ない。
三隅に電話をかけよう。
アイツから何か、一つでも聞きだしたい。
電話が繋がる。
「すいません」
俺が何か言う前に、三隅が言った。どういう意味だ、何を謝ってる?
「すいません。私が殺しました。では、仕事があるので」
三隅でさえ俺の返事を聞かずに切った。
衝動を抑えられず、壁を殴りつける。たまらず叫ぶ。
「いい加減にしろ!」
もう俺は激情に逆らわない。個室の扉を蹴り開けて飛び出す。
へし折れるほど強く握ったスマホが
この腐った空間から抜けるんだ。
手洗いの入り口へ……入り口では、三隅が微笑んでいた。
俺は、許容できる範囲を超えた怒りと、理解できない恐怖の牙とに喰い破られて気絶した。
・
二度目の目覚め。
感覚の違いから、これが現実で、さっきまでが夢なのだと分かった。
かすれた視界で、スマホを見る。
手の震えは収まっていて、三隅からも、オフィスに戻ったという連絡がきていた。返信はしない。
個室を後にして、鏡で襟やネクタイ、髪を直す。目元のやつれが酷くなっていた。顔を洗う。
オフィスへの道すがら。
もうすぐ三隅と一時間ぶりに再会する。冷静になろう。起きていることだけに注視すれば、ネコが死に、幼馴染が嘘をついて、悪い夢をみただけだ。それ以上のことは、想定はされても、起きてはいない。
オフィスに戻った。
三隅がいた。俺の不安などどこ吹く風で作業に向かっている。俺は恐怖をおして三隅の隣に行き、小声で話しかけた。
「なぁスミ。さっきの用事、なんだったんだ」
「君には関係ないよ。個人的な用だし」
「へぇ。動物を虐めたり? 」
さっきからずっと首を気にしてるから直接聞いてやったが、三隅は返事をしない。コイツには、つまらないと思った冗談を無視する癖もある。
まさか、コイツは今、俺のことを、こんなくだらない冗談を本気で言う奴だとでも思ったのか? そんな段階の精神状態に俺がいると、本気で思ったのか? ここで殴り殺してやろうかとも思ったが、拳はなんとか引っ込んでくれた。
――俺は仕事のかたわら、一つの結論を出した。
犯人は恐らくコイツだ。
この癖と、不審な行動が全てだ。しかも幼馴染の俺にこれだけ嘘をつくとなると、並大抵の悪事じゃない。
そうと決まれば、この異常者を排除すべきだ。晴美や、俺にまで危害が及ぶ前に。そう考えることに、文句を垂れる奴はいないと思う。だって、殺したいと思う人間と仕事をするのも、その人間に怯えながら過ごすのも、あまりにまともな生活とかけ離れているじゃないか。
「高木さん」
「は?」
ふと井上に声をかけられて、素っ頓狂な声が出た。
「今日ずっと変ですよ。ずっと、三隅さんを睨んでますし」
そうか、三隅の癖と悪行を知る人間は、俺だけなんだ。
「いや、今朝、ペットが亡くなってね……殺されてたんだ」
井上にだけ聞こえるように
「そうだったんですか、すいません」
「気にしないでいい」
井上は
聞こえてたのか、三隅は一瞬こっちを見て、また仕事に戻った。
◆ 続く
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