二 息が詰まる
出社時間五分前、三隅jはようやくやって来た。長い付き合いなだけにその理由に興味は湧かなかったが、今朝の一件もあったから、なんとなく観察だけしていた。
すると。
「おいスミ。どうしたそのスーツ。犬の毛か?」
「あ、これ?」
俺は三隅をスミと呼んでいる。昔はスミスと呼んでいた。
今はどうでもいい。
とにかく、そのスーツには動物の毛が明らかにひっつきまくってた。
「うちネコ飼ってるからさ。いつも気ぃつけてるんだけど、今日は特に甘えてきて」
「へぇ」
危ないとこだった。
コイツが首をかいてなければ、
――そう、最初に言っていた三隅がややこしくしている問題とは、これのことだ。
「お前ってネコ飼ってたっけ?」
「飼ってたよ。言ってなかったけど」
「この前家行ったとき、いなかったよな?」
「うん。あの後飼いだした。保護猫」
そう言うとスマホでネコの写真を見せてきて、名前も教えてくれた。話の合間合間で首をかいてるのを除いたら、
「嘘つくなよ。俺のネコ殺したの、お前じゃないか」と言うだけで話は解決したかもしれなかった。けど、一度この嘘つきから目をそらすと、もう合わせられなかった。
「そういえば、マサハル元気?」
パソコンをカタカタやりながら、声をかけてくる。
「うん。元気してる」
「あの庭で遊んでるの、可愛かったよねぇ」
「……そうだな」
会話のそこかしこで、ひたすら怯えた。
貧乏ゆすりが酷くなって、脈が速くて、焦点まで定まらない。
しょうがないだろ。幼馴染に、ペットを斬り刻まれたかもしれないんだ。これが恐怖でなくてなんだ……!
どれだけ経ったか、俺は我慢できず席を立った。三隅に何も悟られないように、平然を装いながら、オフィスを抜け廊下へ出た。
冷や汗が乾くほどの早足で、手洗いに向かう。
手洗いには誰もいなかった。
換気扇の音。
一番奥の個室に入り、ズボンも降ろさず座り込む。止まってた呼吸が始まって、やっと脳に酸素が回った。場所が場所なだけに、吸う空気が美味しいとは言えないが、さっきまでのプレッシャーからは抜け出せたような感じがした。
「はぁ……はぁ……」
荒かった息が落ち着いていく。
順番に、三隅の嘘を思い返す。
まず、ネコが甘えてきたというのが嘘だった。
「飼っている」と言ったのも嘘。
となれば、飼ってもいないし、甘えてきてもいないネコの毛が、スーツにベットリついていたことになる。既に結論は異常の二文字だ。
さらに考える。
会社にギリギリで来たのはなぜだ。
仮に三隅がマサハルを殺した犯人だとしよう。普通なら、マサハルを殺してから、遺体を隠したり、持って帰ったりする。けど、それはすぐ見えるところに捨てられてた。見せつけたかったのか、それとも処理が間に合わなかったのか。もし、後者だとすれば……。
便器の水面に顔を映す。吐きかけた。
後者なら、三隅は俺の家にいたことになる。どうやってか家に侵入、マサハルを殺し、俺が家を出るまで潜伏してから、俺の後に家を出た……そういえば、俺は今朝、玄関の鍵を開けて出てきたか。もし開いていたなら、合鍵が作られている可能性も無いとは言えない。
晴美に電話をかける。
一度目の呼び出し。
二度目の呼び出し。
三隅が犯人じゃないとしても、いつ、誰が家に入って来るか分からない。
三度目の呼び出し。
――不意に扉の向こうから声がした。
「マサ?」
三隅だ。
「電話中。後にしてくれ」
「いやね、少し外に出るから、一時間して戻らなかったらチームに連絡だけ頼むよ」
「……メールで言え、そんなこと」
「トイレのついでだよ。じゃ」
革靴の音が遠ざかる。男らしくない、気の弱い足音だ。そのせいで扉の前に来るまで気づかなかった。多分、これから俺の家に行ってどうこう、ということはないだろう。家主にわざわざ報告する必要もないしな。
それから、電話は二度かけ直してやっと繋がった。話をする前に、個室の扉を開けて外を確認する。誰もいないのを確かめてから電話に戻り、自分でも驚くほどの小声で切り出す。
「もしもし」
「どうしたの?仕事は?」
「今はいい。それより、聞いて。今から信頼できる人を、誰か家に呼ぶんだ。警察か、救急か、友達でもいい」
「……今朝のこと?」
晴美は明らかに
「それもある。でも、誰かが家の鍵を持ってるかも――」
それを
「ちょっと落ち着いて。誰かって、誰? なんで鍵持ってるの? 」
「多分、三隅だ。この前家に遊びに来た人。鍵を持ってるかどうかはまだ分からないけど」
晴美は黙ったままだった。しばらく待っても返事がない。
「なんとか言えよ。本当だから、信じてくれ」
「インターホンが鳴ったの。お客さんみたいだし、また後でね」
「え、おい――」
電話は切れた。
同時に、なにか晴美への信頼の糸も切れてしまった気がした。
だが、来客なら、まだ一人じゃないから安心だ。この短時間で三隅が向こうに着くこともないだろうしな。
仕方ない。
今は仕事に戻ろう。
◆ 続く
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