第56話 目覚めの時 Awakened

 シティのドームに春雨が降りしきる三月末の土曜日の朝、飛騨乃匠は二日半続いた神秘の眠りから目覚めた。


 ほの暗い部屋はしーんと静まり返っている。

 身長百八十二センチ、体重七十五キロと、この時代では二十代の日本人男性の平均より大柄な部類に入る。耳を隠すほど伸びた豊かな黒髪、二重瞼の黒い目、くっきりと太い眉、鼻筋の通った甘いマスクに少年の面影を留めている。

 額に手をやって部屋を見回し、ベッドから立ち上がった。

 Tシャツと短パンをあちこち触って見る。乾いた血で赤黒く染まり、触るとごわごわしている。見覚えのないシートも血で染まっていた。両手、両肩、両太腿の回りに乾いた血と体脂がこびりついてたが、どこにも傷は残っていない。血染めの服に傷みはなく穴も開いていなかった。


 信じ難い体験をしたのに、匠には自分が落ち着いているという自覚さえなかった。

 それどころか、過去二十二年の自分は仮の姿で、これが本来の自分、という揺らぎない確信の前に、これまでの人生の方が夢だったように感じる。


 軽い足取りで部屋を出て、貴美の部屋のドアをノックしたが返事はない。

「カミ、入るよ」

 声をかけて手で軽く触れると、ドアがスルスルとスライドして開いた。

 

 貴美は毛布の下で仰向けになって眠っていた。新人類がオーブと呼ぶ淡い光が全身をすっぽり覆っている。匠は躊躇う事なく右手を姉の額にそっと当てがった。

 瞼がぴくっと動き、貴美は目を開いた。同時に身体を包んでいた虹色の光がふっと薄れて消えた。焦点の定まらない目でぼんやり匠を見詰める。


「カミ、目が覚めた?」

 貴美はのろのろと上半身を起こし、両手を後ろについて怪訝そうに眉をひそめた。虚ろな声で匠に尋ねた。

「タク、あなた・・・その血は何なの?」

「これは物質化現象だよ。傷は消えたから安心して!」

「物質化現象って、それじゃ、まさか・・・」

 貴美は言葉に詰まった。

 この十年間ひた隠しにしてきた話題を、前置きもなくいきなり弟から切り出されては咄嗟に返答のしようもない。


「カミと同じ第二世代に進化したんだ」

 千年の間、数々の転生を経て男性初の新人類に変異したというのに、匠はまるで近くのスーパーで買い物でもしたかのように平然としていた。平常心なら「平常心」という言葉さえ頭に浮かばないのと同じで、匠は新人類になっても、取り立ててこれと言う感慨も感じていなかったのである。


 けれども、貴美は混乱の極みにあった。

 ・・・生まれてくるわたし、あれは夢?それとも過去生の記憶?襲ったのは何者?第三世代?匠に何をしたの?わたしはどうなってしまうの?

 立て続けに疑問が沸き上がる。

「ごめんなさい、タク・・・わたし、何だか頭が混乱して。今日は何曜日なの?」


 匠はベッドに腰をおろして姉の両手を取った。弟の手の温かいぬくもりを感じてほっとしたのも束の間、「土曜日だよ」と聞いて貴美は仰天した。

「えッ!?じゃあ、三日も経ったのッ?そんなことって・・・」

 記憶の断片が頭の中をグルグルと駆け回って収拾がつかなずに、半ば錯乱した貴美は匠の手を放して頭を抱えこんだ。


「ダメ!思い出せない!」

 隣にぴったり寄り添って坐った匠は、姉の肩をしっかり抱き寄せた。貴美は涙に濡れた目で匠を見つめ、弟の肩に頭を乗せて目を閉じた。

 十年前、第二世代への変異が始まった時に似ている、と思う。けれども、あの時とは比較にならないほど変化は急激で、体内にやり場のないエネルギーが溢れている。


 一方、匠は自分の身に何が起きたかすべて覚えていた。

 昨夜、タリスが思考や言語を超えた方法で、新人類に必要な知識を授けてくれたのである。謎はいくつも残るものの、迷いや動揺は露ほども感じなかった。

 もっとも、目覚めさせる方法を除いて、貴美については何ひとつ伝えてくれなかった。姉の身に起きた変化には、どうやら自力で対応しなければならないらしかった。


「すべてあなたが決断するのです」と、タリスは千年前に言った。成長するには結果を自分で背負う覚悟が必要だと・・・


 匠は貴美を抱き寄せたまま、おもむろに口を開いた。

「カミ、僕なら大丈夫。何が起きたか覚えているし、どうすれば良いかもわかっている・・・ただ、カミに何が起きたのか正直わからない。でも、それは後回しにしよう。お腹が減ってるだろう?何か作るよ」

 その言葉に、貴美はひどく空腹なのに気づいたが、同時に弟は何て成熟して冷静で落ち着いているのだろう、と新鮮な驚きを覚えていた。


 本当に第二世代に覚醒したのね!とうとうやったんだわ!


 この十年間というもの、ひたすらこの日のために努力を重ねてきただけに、肩の荷が下りると言うが、ほとんど脱力感に近い安心感を覚えた。

 しかし、何ごともなかったように飄々とした弟の様子に拍子抜けして、どう話を切り出したものか迷ってしまう。


「そうね・・・わかった。ありがとう。でも、何か軽いものにしてね。二日以上食べてないから大食しない方がいいわ」

 貴美がようやく言葉にできたのは、朝食の話だけだった。


「じゃ、お粥にしようか?玄米も混ぜて薄味で。梅干しもほぐして載せよう」

「いいわね。あ~、三日前に走って汗をかいたままだわ!先にシャワー浴びていい?」

 匠はうなずいて立ち上がり、貴美の両手を握ってベッドから引っ張り上げた。

「いいよ。トイレもお先にどうぞ。レディファーストって言うか、カミがちびる前にね」

 いつもの気の置けない姉弟の会話が戻った。貴美は即座に言い返した。

「うるさいわね~、ひと言多いの!そんなんじゃ、女にもてないわよ~」

 通りすがりに弟の肩にどんと自分の肩をぶつけた。振り返って立ち止まり、匠を見つめる。

 タク、よくやったわ!

 思わず涙が出そうになるのを堪えて、言葉にならない想いを胸でつぶやく。匠はまるで貴美の心を読んだかのように、片目を器用につぶってウィンクしてにこっと笑った。

 その笑顔を目にした貴美は、衝動的に駆け戻って弟を抱きしめていた。匠も姉を抱きとめて、途切れがちに口を開いた。


「カミ、ありがとう・・・ずっと、見守ってくれてたんだね・・・ちっとも気づかなかった・・・辛かっただろう?」

「バカね、気づかれたら困るでしょ?」

 貴美は泣き笑いしながらささやき返した。

「それもそうだ・・・何も知らなかったから、すんなり過去生に入りこめたのかもしれないね」


「もうすべてわかったの?」

と、貴美は聞いてみたかった。

「第二世代のこと、わたしの本職がCIAのオフィサーだということ、この家に入りこんだ謎の人物のこと・・・」


 けれども、とても言葉にはならなかった。

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