第53話 青い月の王宮 Once In A Blue Moon
王宮は異様なほど静まり返っていた。タリスの言葉通り、衛兵たちは持ち場で眠りこけている。夕食にブラックロータスを混ぜたのか、宰相や召使たちも部屋で熟睡しているようだ。
誰にも
ニムエも眠っているのだろうか?いや、あのタリスがそんなミスを犯すはずはない!
公爵の予想通りだった。
「プロスペロ、待っていたわ。どうぞ入って!」
部屋の扉を叩くとすぐに返事が聞こえた。宰相と会う予定だったらしい。 サマエルは扉を開けて、入り口で立ち止まった。
三方の壁と木製のテーブル上の燭台に蝋燭の火が灯り、入り口の正面にあるバルコニーから吹きこむ爽やかな夜風に揺れている。
ニムエはワンピースの部屋着姿で、部屋の中央に立っていた。
「お、お前はッ!」
目を大きく見開いて息を呑み、両手を口元に当てて後ずさった。
「嘘でしょ!そんな・・・ああッ、神様ッ!」
小さく叫び片手をテーブルについて身体を支えた。信じられない!と首を左右に振って目瞬きを繰り返した。見る見るうちに涙が両目からこぼれ落ち、全身が小刻みに震え出した。
「な、何てことッ!・・・幽霊なのねッ?わ、わたし、お前を殺してしまったッ!ああ、神よ、お許しくださいッ!」
悲痛な声を振り絞ったニムエは、ついに立っていられなくなりテーブルの脚を背に、両膝を合わせて脚を八の字に曲げてペッタリ床に座りこんでしまった。
勇猛な戦士の面影もなく、怯えきって公爵の姿を見つめた。
サマエルは部屋に入り、怖がらせまいと両手を上げて、ゆっくりニムエに近づいた。
「お願いッ・・・来ないでッ!衛兵、衛兵ッ!」
必死に声を振り絞って叫ぶ姿に、公爵は思わず立ち止まった。
ニムエがこんなに取り乱すのを見たのは初めてだ。咄嗟に武器を手にする戦士の習い性まで忘れ、完全にパニックに陥っている。
「ニムエ、僕は幽霊じゃない。サウロンも殺していない。だから、安心して!」
と、なだめ聞かせるように静かに話しかけた。
「衛兵は眠っているだけだ。君に危害を加えたりしない。大丈夫だよ!君が落ち着くまでこれ以上近づかないから」
すると、ニムエは叫ぶのを止め、涙に濡れた目を大きく見開いた。そして、サマエルの広げた両手にまったく傷がないのに気づいて、片手を口に当ててハッと息を止めた。
「本当に、本当に、お前なのねッ!」
小さな声で叫び、立ち上がってサマエルに歩み寄った。手を片方ずつ掴んでは、まず手の平を、次いで手の甲とそれぞれ裏返してはじっと眺める。まだ息を弾ませているが、足元はしっかりしていた。服とズボンに残っている四箇所のほころびにも、そっと指を入れて探り、肩と太腿にも傷が残っていないか調べた。
公爵は王女の気が済むまで、じっと突っ立ったまま待った。
「夢じゃないわよね?死んでないのねッ!ああ、良かった・・・」
唇を震わせながら口走るニムエの目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。こんなにも激しく泣くニムエを見たのも初めてだ。
「・・・お前が好きだった!ずっと前から。でも認めたくなかった・・・お前にはいつもいらいらさせられたもの・・・強くなろうとしないで、傷つけるより傷つく方を選ぶ人間は初めてだった。でも、お前がそばにいるといつも安心できた・・・なぜかしら?」
不意に泣き出して言葉に詰まった。
サマエルは咄嗟に両手を伸ばして、今にも崩れ落ちそうなニムエの肩を支えた。
気の強いニムエがいきなり漏らした赤裸々な告白に、どれほど辛かっただろう、と憐憫の情が先に立って、とても嬉しい気持ちにはなれない・・・
ニムエは泣きじゃくりながら言葉を絞り出した。
「・・・伯爵夫妻を見てから、お前を殺すのがどんどん辛くなった・・・それに、兄上も死んで、お前まで死んだらわたしは一人ぼっち・・・そのまま女王になるのかと思うと、寂しくて怖くて眠れなくなった・・・お前が串刺しのまま苦しんでいるのを終わらせたかった。でも・・・でも、助からないとわかっていても、絶対に死なせたくなかった!失いたくなかったの・・・」
ニムエは許しと慰謝を求めている。サウロンに
泣きじゃくり必死にしがみつく彼女を抱いたまま、サマエルは
「すべてあなたが判断するのです」
と、タリスは言った。この後、何が起きてもニムエを支える覚悟を決めよう、とサマエルは思い定めた。
今にも壊れてしまいそうなニムエを守りたかった。ただひたすら彼女が愛しかった・・・
涙に濡れたニムエの顔は怯えきった幼子のように頼りなげで、公爵は胸を突かれた。ニムエもサウロンと同じく人知れず苦しんでいた。十七の若さで王家のナンバー2になってから、その肩にのしかかった重圧はいかほどのものだったことか・・・
強いが故にすべてを自分で抱えこみ、蟻地獄にはまりあがき続けていた。だからこそ、自らの弱さを隠そうともしないサマエルの存在が、逆に
こんなにも強い二人が、心のどこかで自分の存在を支えにしていたとは、人の心とはわからないものだ・・・
「自分を責めないで。何があってもそばにいるから!」
タリスも同じ言葉をかけてくれた。あの一言でどんなに救われたことか!その言葉に、ニムエの目からまた涙が溢れ出て、頬を伝って落ちた。
「ごめんなさい、ごめんなさい・・・ひどい目に遭わせて・・・」
激しく泣きじゃくり首に回した両手で力いっぱいサマエルにしがみついた。しゃくりあげながら泣き続けるニムエを、サマエルはただひたすらしっかり抱きしめていた。
ニムエは公爵がどうやって地下牢を抜け出したのか、なぜ、傷ひとつ残っていないのか聞く素振りさえ見せなかった。
今は僕が生きてそばに居るだけでほっとして、他のことには頭が回らないのかも知れない・・・
だが、サウロンを殺した犯人ではない、とニムエが確信した理由は分からなかった。
ニムエとサマエルはもはや互いの存在しか目に入らず、二人は過去も未来も忘れて固く抱き合った。
どのくらいそうして居ただろう。泣き止んだニムエは、サマエルの肩に頭を乗せたままじっと動かない。穏やかになった彼女の呼吸を感じながら、
目を上げるとバルコニー越しに、青みがかった満月が煌々と輝きを放ちながら夜空に浮かんでいた。午後九時ぐらいだろうとサマエルは見当をつけた。地下牢にタリスが来たのは七時頃のはずだ。ニムエの部屋に入ってから小一時間が経っていた。
サウロンの死の真相も、伯爵夫妻の企みも今は伏せておこう。今はニムエだけ・・・
サマエルはそっとニムエの顔を両手で包んだ。二人はじっと見詰め合い、そして目を閉じて唇を合わせた。それからまた目を開いて、お互いを見詰め合う。言葉が出なかった。
辛かった数々の体験も耐え難い心の痛みも、この瞬間のために乗り越えてきたような気がする・・・
例えようもなく甘美な口づけを繰り返してから、サマエルはニムエを抱き上げて部屋を横切り寝台の上にそっと寝かせた。月光に照らされた王女は息をのむほど美しかった。
その夜、豊満な月の光の下で二人は結ばれた。ひたすら彼女が愛しくてたまらず優しく接しているのに、ニムエは息も止まらんばかりに途切れ途切れに喘ぎながら、すすり泣いては繰り返し激しく昇り詰めた。
一段落すると寝台のそばの水差しから水を口に含んで、口移しにニムエに飲ませる。彼女はなすがままに任せて、赤ん坊のように無心にサマエルを見つめ、幸せそうにはにかんで胸に顔を押しつける。それから二人はまた愛し合っては水を飲んで抱き合い、互いの目を見詰め合った。
言葉は交わさなかった。必要なかった・・・
この城は巷で「青い月の王宮」と呼ばれている。この地方では、春から初夏にかけて大量の花粉が飛ぶ。花粉が空中で月光を乱反射して青く見えるのだ、と学者たちは説明する。けれども、人々は青い満月の夜には、素晴らしい出来事が起きると素朴に信じていた。
最上階のこの部屋にも、夜風が
何度も愛を交わした後、月が沈む頃、二人は抱き合ったまま深い眠りに落ちていった。
ワンス・イン・ ア・ブルームーン。この言葉は滅多にない出来事を意味している。この夜、青い月の下で、二人は過去数年間耐え続けた苦悩から解放され互いの愛を確かめ合った。
けれども、この夜、人類の未来へつながる遥かな道が開けたとは、二人は知る
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