第52話 タリス Talis

「君は伯爵夫妻の跡を追けて、エメラルドフォールズまで行ったんだね?」

 サマエルが尋ねると、タリスは柔らかな笑みを浮かべた。

「今にわかります、公爵様」

 サマエルも思わず笑顔を返していた。笑顔になるのは何時以来だろうと思いつつ、この東洋人の少女はあまりにも謎めいて、到底理解できそうにないと腑に落ちた。

「本当にありがとう。あなたには二度、いいえ三度も命を救われました。伯爵夫妻に拷問された時もそうでした」

 自然に敬語になったアトレイア公爵は、神秘的で柔和な東洋の顔立ちに魅入られた。見かけは少女でも正体は女神かも知れないと思う。


「私は神ではありません。あなたが拷問されるのを何日も見過ごして、酷い苦しみを与えてしまいました・・・あなたに未来を託せるか確かめたかったのです」

 何を言いたいのだろう?

 サマエルはエキゾチックな顔を見つめた。すると、タリスは優美な弧を描いた黒い眉をひそめて言った。

「過去や失恋の痛みから逃れるために死を望んでいただけなら、あなたはあの苦しみにとても耐え切れなかったでしょう。そして、私があの小屋に居たと王女に告げれば、身に覚えのない国王殺害は不問にされ、拷問を逃れることもできたかも知れません・・・」

 タリスは苦悩に耐えるような表情を浮かべて言葉を切った。

「・・・けれども、あなたは見ず知らずの村の少女を守り、兄王の暗い秘密で王女が苦しむことのないよう沈黙を貫きました。伯爵夫妻から拷問された時も、王女と少女を守ろうと最後まで耐え抜きました」

 サマエルは言葉が出なかった。心を読んではいないと言ったが、どうやって知ったのだろう?すべて見ていたのだろうか?


 タリスは無言でうなずき、さらに不思議な言葉を口にした。

「二日間待ったのには訳があります。それもいずれ分かる日が来ます・・・それから、私はサウロンを操ってはいません。それでは意味がありません。王は自ら決断して命を絶ったのです。ただ、私を襲ったのは偶然ではありませんでした。サウロンはあなたと同じ力を、私からも感じ取ったのです。強さしか信じないサウロンは、己の脆さを見抜かれていると感じて苛立ったのでしょう・・・狙われているのは分かっていましたが、成り行きに任せました」


 不可解な謎だらけだった。公爵を串刺しにしていた矢は、痛みもなく身体から抜け落ち、傷つき死に瀕していた身体を、この少女は摩訶不思議な力で完全に治してしまった。

 その上、すべてお見通しときている・・・

「傷を癒したのは私ではありません。あなたの力を引き出しただけです。人間には眠っている力があります」

 タリスはにっこり微笑んだ。

「その力はアルビオラに受け継がれ、彼女の中で目覚めます」

 誰だって?もうまるで意味がわからない・・・

 この少女の言葉を理解するのは無理だ、と公爵は匙を投げた。


はあなた方と同じです。その時々にできることをやっています。すべての人を助ける力はありません・・・そして、何が助けになるか判断するのが、とても難しいのです。良かれと思ってやったことが役立たないばかりか、逆効果になることさえあります」

 サマエルはもはや言葉もなく聞き入っていた。

「城の衛兵は皆ぐっすり眠っています。あなたの屋敷にあったブラックロータスを使いました」

 警戒厳重な屋敷にどうやって侵入したのだろう?もっとも、あの滝の険しい崖を降り、隣国の村にこっそり僕を運び、この王宮にも入りこんで、ニムエの小間使いになりすましたぐらいだから、彼女にとっては大して難しくもなかったのだろう・・・

 問いただす気も失せたサマエルは、ほとほと感心して胸でつぶやいた。


 タリスはサマエルを見上げて、不意にいたずらっぽい笑顔を見せた。

「あなたはニムエを愛しているのでしょう?これからどうすれば良いか、分かっていますね?」

 公爵は深くうなずいた。サウロンとの約束を果たさなければならない。そのためにはニムエに真実を伝えるしかなさそうだ、と思った。

 すると、タリスはサマエルを見つめながら淡々と続けた。

「あなたは生まれついてのヒーラーです。ニムエと向き合い彼女を支えて下さい。私のことを話しても構いません。すべてあなた自身で判断するのです」

 微笑みながら語りかける。その清らかな笑顔を見るだけで、彼女の不可思議なエネルギーが伝わってくるようだった。


「ずっと先の未来で、私を思い出す日がきます。また、会いましょう」

 そう言い残したタリスは、もう一度にっこり微笑むと、身を翻して回廊を階段に向かって歩いて行った。

 その途中で少女を包んでいた白く柔らかな光がふっと消えた。


 神秘的な東洋の少女の姿が階段の陰に消え、辺りは何事もなかったように静まり返っている。壁に等間隔に並んでいる燭台の蝋燭の炎が、誰もいない暗い石畳の通路をほのかに照らしていた。巡回に来るはずの衛兵も姿を見せない。


 もしかしたら、すべて夢じゃないのだろうか?

 サマエルはふり返って磔にされていた扉を調べた。

 矢が刺さっていた場所は、穴が穿うがたれ表面に血痕が残っていた。六本の矢は固まりかけた血に黒くまみれ、扉の前の石畳に転がっている。両手両肩と太ももをじっくり調べたが、血痕だけで傷はまったく残っていない 。矢じりに傷つけられた骨も治っている。衣服の肩と太ももの矢に貫かれた部分が破れて、赤黒い血の染みが残っているだけだった。

 思い立って扉を開けると、地下へと続く階段が暗がりに伸びていた。この城に地下二階があるとは知らなかった。これも秘密の抜け道なのだろうか?しかし、地下二階まで掘り下げる必要はないはずだ。

 サマエルは扉を閉めて顔を上げた。地下室の謎にかまけている場合ではなかった。


 両親の海難事故と内戦の勃発以来、心に鬱積していたやり場のない悲しみと怒りと絶望は、タリスと過ごしたわずか一時間足らずの間に、まるで憑き物が落ちたように消え去っていた。処刑と拷問の傷も癒え、心身ともに完全に回復した。

 それどころか、これまでにない新鮮なエネルギーが全身にみなぎっている。


 タリスが立ち去った回廊を辿り、階段を軽々と駆け上がった。

 彼女の言葉通り、やるべきことはわかっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る