第20話 カミーユ・ドレフュス Camille Dreyfuss

 匠が記録した文書を読み終えた貴美は、平静を装って椅子から立ち上がった。実験室のドアをノックして、技師が顔を出すと間髪を入れずテキパキと伝えた。ならではの居丈高な態度を演出しなければならない。

「あなたの上司には、後ほど令状と申請書を送るという条件で話を通してあります。申し遅れましたが、この部屋の入室許可コードも頂いています。この画像と私が文章に変換したコピーを引き渡し、元データはすべて完全に消去して下さい。よろしいですね?」

 左手にバッジ、右手に身分証明書を持って技師の顔に突きつけ、有無を言わせぬ口調で指示した。


 アルファベットの三文字を見た瞬間、技師の神経質そうな細面の顔が見る見るうちに青ざめた。ストレス反応が生じて身体が強張り、怯えて唇をわなわなと震わせている。

「しょ、承知しました・・・ただちにコピーいたします。転送でなくてよろしいですか?」

「コピーでお願いします。それからこの件は他言無用です。おわかりですね?上司や研究所長にも一切報告する必要はありません。この部屋の監視モニターも、私が帰るまで再起動しませんよ」

 技師は驚いて部屋の四隅にある監視モニターを見回した。

 いつの間にやら稼動ランプがすべて消えている!この女が入ってくる前に、上司がモニターを切ったに違いない。

 研究所ぐるみでオフレコというわけか。技師は一人合点した。


 貴美はさり気なく、デスクの上に飾ってある技師の家族写真を取り上げて、やんわりと釘を刺した。

「可愛いお嬢さん。今日が五歳の誕生日ですね。奥さんも幸せそう」

 技師は顔を引き攣らせたが、動揺を抑えて黙々とコピーを取り終え。震えの止まらない手でデータカードを差し出しながら、声を振り絞った。

「決して口外しませんから、お願いですから・・・」

 貴美は冷ややかに技師の言葉を遮った。

「まずデータを消去して下さい。私も確認しますから」

「も、もちろんです。すぐに消去いたします」

 技師はホログラムを操作して、データのデジタル・シュレッダーを起動した。文章の画像とテキスト、催眠誘導時の録画、実験企画書などすべてを唯々諾々と消去した。


「ご協力に感謝します。ご家族揃ってお幸せにね」

 作業が終わると貴美は技師の目を見つめて、初めて笑顔を見せた。サングラス越しに黒い瞳が鋭く光っている。

 左手の人差し指を立てて唇に当てて見せると、踵を返して実験室を後にした。


 呆然とその姿を見送った技師は、へなへなと崩れるように椅子に座りこんだ。

 頭の中は真っ白で、まだ手の震えが止まらない。公安関係者と見当はつけていたが、まさか大国の諜報組織とは想像もしていなかったのである。

 被験者が去ってほんの一時間足らずで、諜報員を送りこむとは聞きしに勝る情報網に背筋が寒くなる。家族構成まで把握されていた。

 それでも、どうやら事なきを得たらしい、と一安心すると、あの大学生に起きた不可解な現象の陰に、どんな国家機密が関わっているか気になって仕方がない。

 自動書記のような現象は、初めて目の当たりにした。研究者として実績にもなる上に好奇心も手伝って、個人情報だろうがお構いなしに調べるつもりでいたのである。ところが、あの女が押し入って来たばかりに、貴重なデータの内容もわからずじまいだ。

 そう思うと技師は腹立たしく残念でたまらなかった。

 

 が、すぐに頭から好奇心を払いのけた。

 いやいや、何も知らなくて幸運だったのだ!下手をすれば事故や自殺を偽装され、冷たくなって転がっていたかも知れない・・・

 最悪の結末が頭に浮かび、ぞくぞく悪寒がする。

 絶対に関わってはならない!家族まで危険に晒されるぞ、と自分に言い聞かせた。こんな怖い思いをしたのは生まれて初めてだし、金輪際二度とゴメンだった。

 早く家に帰って、愛娘と妻の顔を見たい!

 技師は家族を愛おしく思いながら、そそくさと帰り支度を始めた。



 研究所を出た貴美の顔は、悲し気に曇っていた。

 頭ごなしに糾弾して意のままに相手を服従させ、挙句に家族を人質に取ると暗に脅迫して黙らせるのは、決して本意ではない。

「ごめんなさいね」

と、心の中で技師に詫びていた。


 サングラスをかけ髪も後ろで束ねている。黒髪に黒い瞳だがフランス系アメリカ人の父親譲りの彫りの深い二重瞼の大きな目は人目を惹く。身分証明書を見せる時も、用心して顔写真に指をかけて目を隠した。身分証明書とバッジはカミーユ・ドレフュス名義である。

 今後、シティで会う機会があったとしても、あの技師は臨床心理の同業者、深山貴美が自分を恫喝してデータを持ち去った諜報員とは気づかないだろう。


 実のところ、技師の上司は今日の件について何ひとつ知らされていない。匠がこの研究所に入ってから出るまでの監視モニター映像も、すべて消去されているはずだ。

 ナラニがこの研究所を指定したからには、事前に必ず手を打っている、と貴美は確信していた。

 第二世代は千年もの長きに渡り、その正体を隠して人類と共に暮らしてきた。こちらの正体こそ知らないが、支援してくれる人類の味方をいつの時代も作っている。シティとて例外ではない。


 CIAの令状や要請書類など、むろん最初から存在しなかった。

 そもそもCIAに捜査権はないのだが、海外の民間人はFBIとCIAを混同しがちである。理系の研究者が法律に疎いのも計算済みだった。

 データを見るまで伏せていた身分を明かしたのは、他に手がなかったからである。ここに来るまでの間に、研究所の概要と人員を調べ、担当技師の個人情報を手に入れるだけで精一杯だった。


 卑劣なやり方には違いないが、相手の家族や友人を人質にするのは、極めて理に適った戦術だ。

 けれども、貴美にはよくわかっていた。

 この手の罪悪感はいくら正当化しても、決して消えはしない・・・

 第二世代は、先天的に人間にも他の生き物にも強い慈愛の念を抱く。後天的な第二世代で、表向きは冷酷非情な任務を果たす諜報員の貴美も、決して例外ではなかった。

 脅迫こそしたが技師や家族を傷つけたわけではない、と自分に言い聞かせ、目的は果たしたのだから、と咎める良心をなだめすかした。


「とりあえず、第二世代と接触した影響が止まれば良いのだけれど・・・」

 夢回路の遮断処置がきっかけでコンタクトの記憶が戻るとは予想外だった。重大な疑問も残る。

 なぜ、記憶探査が付け加えられていたのか?映像記憶が蘇らなかった原因は?ナラニに確認しなければ!

 一見些細な出来事でも違和感を感じる場合は、根拠のない楽観論で放置してはならない。諜報機関の訓練と現場で身に付けた習い性だった。


「これからも一筋縄で行かないわね」

 貴美は歩きながら深いため息をついた。技師の家族写真を思い出したのである。

「タクもわたしも、あの技師のように普通の生活を送れたらいいのに・・・そう言えば、ビビって呼んでいたわね。二人は過去生で父と娘だったのね」

 深い絆で結ばれた仲睦まじい親子だったらしいわ・・・

 貴美はふっと優しい笑みを浮かべた。

 記憶映像がなく顔はわからないけれど、早く会いたい、と思う。そのためにも、今こそ自分が全力で弟を支えなければ、と気持ちを引き締めた。


 研究所の敷地を出たところで、匠からメールが入った。

[残業?家に戻ったよ。研究所で診てもらっているうちに爆睡。起きたら気分爽快。助かったよ。ありがとう!ところで、あの研究所がSSRDに所属しているって知ってた?]

 貴美は匠が元気を取り戻してほっとしたが、残業してないとバレないよう返信はしなかった。

 最後のフレーズを読んだ貴美の脳裏に、数年前の出来事が鮮やかに蘇る。脳心理研究所がSSRDの傘下にあると、とっくに把握していた。


 機動歩兵のモビールスーツを開発した、あのSSRDの・・・

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