第7話 ルージュの伝言 Lipstick Message
「そんなに焦って、どうしたの?」
貴美が不審そうに匠の顔をのぞき込み、匠は我に返った。
「何でもないよ。眠り過ぎたみたいだ。今、何時?」
「七時半よ。そうそう、社長さんから部品交換のお礼を伝えて欲しいって、電話があったわ」
「えっ?それじゃ、部品はもう先方に届いたの?」
「昨夜届いて、会社のラボで故障原因を調べるって。シティの配送ロボは早いわね~。カヤコープだっけ?」
匠は姉の言葉にも上の空で頭をひねっていた。シティに戻った時、部品を係官に渡したかどうか覚えていない・・・
フィールドワークで土壌サンプルを採取した後、貴美のクライアントから頼まれた仕事で北上して、凄まじい汚染が蓄積する山麓に分け入った。山火事監視装置の部品交換が終わり森林の上に浮上した時、この山麓に入る機会は二度となさそうだから、土壌サンプルを取ろう、と思いついたのである。
辺りを旋回して、開けた草地に着陸したところまでははっきり覚えている。ところが、その後の出来事は断片的にしか思い出せない・・・
考えこんでいた匠が不意にくしゃみを連発すると、貴美はびっくりして眉を上げた。
「あらっ、風邪でもひいた?」
「防護服のせいだよ。洗浄液の成分が残ってたらしいや」
「どれどれ?」
貴美は匠のそばに顔を寄せて臭いを嗅いだ。
「わっ、よせッ!汗臭いだろう?シャワーも浴びないで寝ちゃったから」
「大丈夫。これなら匂いに敏感な女子も気づかないわ!ね、コーヒーを入れたから飲みましょ。それから朝食。お腹空いてるでしょ?」
貴美は笑って、匠の肩に手を回した。
「あ~、急にお腹が減ってきたよ。本当に姉貴はカミ様だ!」
「そうよ、飛騨乃タクみのカミ!」
貴美も二人の名前をもじって冗談で切り返す。
「それ、ちょっと違うんじゃない?赤穂浪士の殿様は、浅野じゃなかったっけ?」
「へ~、感心ね。日本史の勉強いつやったの?いったい誰と勉強したのかな~?」
「えっ?・・・だって、図書館だから、みんなと一緒に決まってるじゃん」
大学女子と一緒に勉強したって、なぜわかるのか?いつもながら、貴美には隠しごとができない。
「のどが渇いたから水を飲んでくる」
追及される前に部屋から出ようとした匠に、貴美が声をかけた。
「タク、首から少し血が出てるわ」
血だって?手首にIDを装着してからスコープを起動した。首の辺りにかざしながら、卓上ホログラムで映像を拡大すると、うっすらと細く血が滲んでいるのが見えた。
「ほんとだ!」
両側に同じように浅い二センチほどの真新しい切り傷がある。さっきの夢が原因だろうか?そう思うと、恐怖の余韻が
だが、そんな馬鹿げたことがあるはずはない!気を取り直して、ダイニングキッチンでミネラルウォーターを飲むと、ランドリールームで濡れたTシャツと短パンを着替えた。貴美と他愛のない話を交わすうちに、昨日のあやふやな記憶も気にならなくなり、いつものペースが戻ってきた。
「タク、ニミュエって誰なの?」
朝食を食べ終わると貴美が口を開いた。
「えッ?誰?」
「起きがけに叫んだ声が聞こえたの」
「ああ、あれ?変な夢を見たんだよ。中世のヨーロッパかどこかの。あんなリアルな夢は初めてだよ!」
かいつまんで今朝の夢について話す間、貴美は黙って耳を傾けていた。匠はふと言葉を切って首を傾げる。なぜ、あの女の言葉がわかったんだろう?あれはたぶんイタリア語。それも中世の・・・
「じゃ、僕は日本語で叫んでたのか?」
貴美は首を横に振った。
「ううん、イタリア語だったわ」
「えッ?カミ、イタリア語もわかるんだっけ?」
フランス系アメリカ人の父と日本人の母を持つ貴美は、日本語と英語とフランス語を使える。
「日常会話ぐらいならね」
思わせぶりに匠にウィンクした。
「あ~、そっか!でも、イタリア人の彼氏なんかいたっけ?女と見れば口説くのがあの国では男の礼儀なんだろ?姉ちゃん、さては遊ばれてんじゃないの?」
「失礼ね~、あなたの夢の彼女よりずっと優しいわよ!」
貴美は朗らかに笑って匠をたしなめた。
「そうなんだ、激しいんだよ、ニムエは・・・」
匠は冗談交じりにため息をついた。ニミュエと発音するらしいが、日本語だとニムエになってしまう。夢は覚えているのに、イタリア語は思い出せない。
「いきなり矢を首根っこに射こんできた。二本立て続けに。思い出させてやるって、もの凄い剣幕でゾッとした」
貴美の笑顔が消えて、不意に真剣な面持ちで匠を見つめて尋ねた。
「その首の傷は、夢の中で矢が当たった場所なの?」
「だいたい同じところだと思う。無意識に引っ搔いたんだね。すごく怖かったから」
「そう、よっぽど怖かったのね~」
と、貴美は軽く相槌を打つと話題を振った。
「あなた、髪が伸びたわね~、カットしたら?」
自宅でホログラムイメージを選び、ヘアケアロボットで散髪が出来る時代なのだが、エリア21には昔ながらの床屋と美容院もある、これが意外に繁盛していた。
「グルーミングされると気持ちいいわよね~。カウンセリングにも取り入れようかしら」
貴美は不意に右手を伸ばして、匠の頭をいじくりまわし、立ち上がって匠の背後に回った。
「タク、首が凝ってるわ。マッサージしてあげる」
「えっ、いいよ、どうせ床屋に行くし」
「いつ行くんだか?いいから任せて!」
珍しく強引で腑に落ちなかったが、首や肩を揉んでもらっているうちに、匠は気持ちよくなってついうとうとなった。と、いきなり首の後ろを冷たい物で擦られて飛び上がった。
「冷たッ、何すんだよ!」
「タク、首の後ろもちゃんと洗わないと女にもてないわよ~」
鼻炎で鼻が効かなかったが、エタノールの匂いがかすかに漂ってきた。
「もしかしてアルコール?そんなに汚れてた?」
「あ~、やっぱり気になるんだ?床屋の茶髪の理容師さん、何て名前だっけ?」
「えっ・・・あっ!もうこんな時間?出かけなくちゃ!」
逃げの一手でバッグパックをひっつかんで出かけようすると、貴美が笑って呼び止めた。
「これ、あなたのでしょう?」
後輩の
「サンキュー!ブランチも美味しかったよ」
匠は測定器をバッグパックに放りこんで家を出て、エアスクーターでシティ中心街にある大学の専門学部へ向かった。
弟を送り出した貴美は、物憂げに窓越しに外を眺めて物思いに沈んだ。スウェットのポケットに手を入れ紙ナプキンを取り出してそっと開く。内側は口紅で染まり、鮮やかな赤と青が入り混じっている。
五感が並み外れて鋭い貴美には、口紅とわかっていた。水で洗っても落ちないがアルコールなら綺麗に落ちる。たまたま弟の髪をいじって見つけたのではなく、香料の匂いに気づいたのだ。女性とキスしようものなら、匠の表情や態度でそれとわかるのに、その素振りもないのが気になって調べたのである。
口紅で描かれた赤と青のシンボルマークが首の後ろ髪の陰に残されていた。見覚えのある紋章を目にした瞬間、予想外のコンタクトが起きたと貴美は悟った。汚染地帯で安全に全面マスクを外せる場所は一か所しかない。だが、山火事監視装置はサンクチュアリから数十キロ離れている。まさか迷いこむとは予想しなかった・・・
「私のミスだわ。まだ準備もできてない。あの子を苦しめたくないのに」
貴美はうなだれて唇を噛み締めた。思わず涙がこぼれそうになったが、自分のミスでは説明がつかない疑問が頭に浮かんだ。
「なぜ、私に知らせずに事が進んだの?誰が何のために匠にコンタクトを?」
癒し系カウンセラーの柔和な表情が消え、諜報工作員の冷徹な表情に取って代わった。実はそのどちらも貴美にとって仮の姿に過ぎない。
貴美は新人類の第二世代である。匠が養子に来たのは偶然ではない、と知ったのは十年前のことだった。世界がひっくり返ったようなショックを受けたが、同時にそれまで謎だった数々の出来事に、深い意図が隠されていたと悟った。あの時、第二世代の長老ナラニは、十四歳の貴美に優しくこう告げたのである。
「あなたには、特別な役割があるの」
嘆いている場合ではない。これから起きる変化を弟が乗り越える方法を探らなければ。限られた時間で情報を集め助言を受け、後は訓練と経験と直感に従って対応するだけよ!
心を決めた貴美は素早く身支度をすませ家を飛び出した。
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