第6話 夢の途中 The Dream

  夢を見てると頭の片隅ではわかっているのに、あまりにリアル過ぎて、匠の意識はいつしか引きずりこまれるように夢の世界に飛んでしまった。


 白い石造りの砦は、色とりどりの花が咲き乱れる森に取り囲まれている。目に入る風景すべてが奇妙なほど明るく穏やかで、芳しく爽やかな風が石畳の上を吹き抜けて行った。

「ここはどこだ?」

 辺りを見渡した匠は、ビクッとして立ちすくんだ。十メートルほど離れた石畳で、見知らぬ女が弓を構えてこちらを狙っていたのだ。引き絞られた弓は大きく弧を描いて、今にも弾けんばかりにたわんでいる。間近で見る原始的な武器は、ぞっとするほど生々しい。

 

 女は匠を睨みつけながら、激しく言い放った。

「やっと捕まえたわ!この国に逃げこめば、助かるとでも思ったの?これまでよ!王家の血の掟はお前も知っているはず。城に連れ帰ってなぶり殺しにしてやるから、覚悟するのね!」

 初夏の陽射しを反射して鈍く光る矢じりに視線は釘付けで、女の顔も目に入らない。気づくと背にした木製の扉を無意識に後ろ手で探っていた。ところが、扉はスライドするどころかドアノブさえない。ここは、高さ五メートルほどの石壁に囲まれた袋小路だ。逃げ場がない!匠は恐ろしくなり、反射的に目を閉じた。すかさず、女が鋭く声をかける。

「こっちを見てッ!」


 有無を言わせぬ威厳に満ちた声に気圧され、木偶人形のように目を開けた瞬間、匠は女の姿から目が離せなくなった。

「何て溌剌はつらつとして、生気に満ちた女性なんだろう!」

 輪郭が深い二重瞼の大きな目、日焼けした瓜実型の顔、後ろで束ねた艶やかな栗色の髪、ギリシャ彫刻のように端正な顔立ちをしている。二十歳前後で身の丈は百七十センチはありそうだ。手脚が長いせいでほっそりして見えるが、コーカソイド特有のがっちりした骨格は量感にあふれていた。

 だが、匠が魅入られたのは美しい容姿より、女が発散させている強烈な野生味だった。

 フードの付いた丈の短い上着に厚手の長ズボン姿で革のブーツを履き、背中には矢羽が詰まった矢筒を背負っている。衣装はひと目で手造りとわかる代物であちこち薄汚れている。匠を睨みつけながら整った頑丈そうな歯並びの口を半開きに息を弾ませていた。だが激情に身を震わせても、弓を引き絞る両腕は微動だにしていない。

 血なまぐさい戦場をくぐり抜けてきた手練れの戦士に違いなかった。肉食獣を思わせる凶暴な雰囲気にのまれ恐怖で身体がすくんだが、心の中はしびれるほどの感動と、戦慄せんりつがないまぜになって激しく渦を巻いている。恐怖と蠱惑こわくが匠の心を虜にしていた。


「まさか、忘れたなんて言わないでしょうね?」

 自分に見とれている匠に気づいて、女はいぶかしげに顔を傾け、くっきりした弓なりの眉をしかめた。うって変わって穏やかな深みのあるハスキーボイスには、しかし不穏な響きがこもっていた。


 なぜ、女の言葉が理解できるのだろう、と頭の片隅で匠は不思議に思った。女が話しているのはイタリア語だったのである。


「村人はお前は記憶を失っていると言っていたわ。まさかと思ったけど、本当だったのかしら?・・・いいわ、それなら思い出させてやるまでよ!」

 言葉もなく立ちすくんでいる匠を見つめ、女はふんと鼻を鳴らして、含み笑いを浮かべた。

「この三ヶ月、長かったわ!この日が来るのをずっと待ち望んでいた・・・」

 言葉を切ると首を左右にわずかに振って、満足そうなため息をついた。

「これでやっと王位を継承できるもの!」

 下唇を噛んで笑みを浮かべ冷たく澄んだ目を見張って匠を睨んだ。獲物を追い詰めた狩人の興奮を抑えきれない表情に、恐ろしいほどの凄みが漂っている。


「もう一度聞くッ!私を覚えてないの!?」 

 張り上げた声の尖った響きに、匠はたじろいだ。言葉はわかるのに恐怖で口が動かないのだ。辛うじて首を横に振った。


 次の瞬間、鈍い振動音とともに右耳のすぐ下に強い衝撃が走った。ドスッという激しい衝撃音が耳元に響いて、細かい木くずがパッと飛び散って舞い落ちる。首の右側をかすめて、矢が深々と扉に突き刺さっていた。

 まるでコマ落としのように、矢が放たれるのも飛来するのも見えなかった。褐色の硬い木の矢軸が首に触れ、顔から数十センチ先で、白い矢羽根が小刻みに震えている。

 身体が硬直して息が止まり、顔から上半身にかけて冷や汗が噴き出てくる。匠が突き立った矢から女に視線を戻すと、女は二の矢をつがえて狙いを定めていた。自信にあふれたその姿から、的を外したのではないと匠は直感した。だが、木製の手作りの弓矢でこんなにも正確に射ることができるのか?


 そんな疑問もたちどころに吹き飛んだ。弓鳴りの音とほぼ同時に、矢が首の左側を掠めて、衝撃とともに木くずを散らして扉に深々と突き刺さったのだ。

 顔の直近に立て続けに矢を射こまれたショックで、匠は脳貧血を起こした。視界がみるみるうちに暗くかすんで、キ~ンというかん高い耳鳴りに周囲の物音まで薄れていく。顔面から血の気が引いて、寒気に襲われて全身が小刻みに震え出す。

 膝から力が抜けて身体が崩れかけると、二本の矢が両耳に食いこんで、痛みに我に返った匠は、脚を踏ん張り扉に両手をつけて辛うじて身体を支えていた。


「どう?何か思い出した?それとも、今度は股間にお見舞いしようかしら?」

 女は小気味良さそうな笑みを浮かべた。左手に握った弓を下ろし右手を腰に当てて値踏みでもするように匠を見つめている。これからどう料理するか考えて楽しんでいるようでもあり、小馬鹿にしてからかっているようにも見えた。匠ははっと息をのんだ。


 そうだッ!あの仕草、あの表情、見覚えがある!

「やめてくれ、ニムエっ!」

 知るはずのない中世イタリア語が口をついて出た・・・



 ベッドから跳び起きた匠は、上半身を起こして大きく何度も喘いだ。心臓がドキドキ動悸を打っている。

「いったい、どうなってるんだ?・・・」

 いかにも人の好さそうな甘いマスクは恐怖で引きつっていた。Tシャツと短パンが冷や汗で肌に貼りつき、引き締まった筋肉質の身体が浮き彫りになっている。部屋を見渡すと、昔風のカーテン越しに初春の柔らかな太陽が射し込み、窓の外では小鳥がひっきりなしにさえずっていた。

 いつもと変わらぬ平穏無事な現実を目の当たりにして、匠は天を仰いでふ~ッと安堵のため息をついた。やれやれ、夢か・・・


 その時、ドアをノックする音が聞こえた。返事をすると、ドアがスライドして、貴美タカミが入って来た。

「いったい、どうしたの~?大声なんか出して。大丈夫?」


 匠は姉の顔を見て、ほっと肩の力が抜けた。両親が貿易会社を経営している関係で、二人は幼い頃から日本と海外を行ったり来たりする生活だった。度々環境が変わったが、貴美は養子の匠を陰日なたなく支えてくれた。両親は今も海外を飛び回り、匠は四年前、貴美は一年前からここシティで暮らしている。

 色白で癒し系の優しげな顔にグラマラスな体型も手伝い、おっとりした印象を与える。けれども、貴美には独特の冷静さが備わっていた。脳心理カウンセラーという職業柄、外観からは想像できないほど洞察力も直感も鋭いのだ。


「昨夜九時過ぎに帰ったら、あなた、ぐっすり眠っていたわ。夕食も食べてないんでしょう?よっぽど疲れたのね~」

 昨日?そうだ!フィールドトリップとアルバイトで汚染地帯に入って山岳地帯までエアバイクで行ったんだ。。

「あっ!」

 匠は叫んでベッドから飛び起きた。誰だったんだあの子・・・?いや、あれは夢だと思い直す。


 昨日、匠は初めて危険な山脈の麓まで飛んだ。緊張したせいか、家に戻ると異様な眠気に襲われ、ひと休みするつもりが、そのまま眠り込んでしまったのである。そして、奇妙なほど鮮明な夢が始まったのだ。

 最初に見た夢には、白金のような髪の女性が現れた。年の頃は十七、八歳。食い入るように匠を見つめる青い瞳から、不意に涙が溢れ出す。唇を震わせ両手を伸ばして匠の防護手袋に覆われた手をしっかり掴む・・・


 弓矢の女性の夢を見たのはその後だ。


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