10.いつかまた会える日まで

 久しぶりに吸った外の空気は澱んでいたが、懐かしくもあった。

 ようやく自由になった手首をさすりながら、与志人は傍に腰を下ろす少年を見遣った。

 自分達がいたのは寂れた通りの奥、朽ちかけたビルの二階だった。

 その前に放置された壊れかけのベンチで螢は大きく伸びをしている。そこにはいつもの表情が垣間見え、解放されたこととは別の安堵を与志人は感じていた。

 四人の男達はあの部屋に残してきた。自分達を拉致した三人は気を失っているだけだった。内浦も重傷を負っていたが命に別状はないようだった。保護もせずにあの場所に放置したが、後で匿名で救急車を呼ぶことは考えていた。


「与志人、あれは一体誰なんだ?」

 届いた言葉に与志人は背後を振り返った。

 そこにはこちらを訝しく見上げる少年の姿がある。

 今夜の出来事はもう解決したはずだ。彼に何を訊ねられているのか分からず、与志人は質問を返した。

「誰って、螢、何のことを言ってるんだ?」

「ずっとお前の傍にいたんだ、夕方お前と会った時からずっとな。最初はお前が振った女性の残留思念かと思った。お前に執着してたからな。でも違った。多分お前に何かを知らせようとしてた。今だってお前をとても心配してる。だけど力は弱い。おれにも声は聞こえないし、気配も微かだ。だから最初の部屋にいた時、判断ができなかった」


 与志人は言葉を返せなかった。

 自分を心配していると言われて浮かび上がる相手を思えば声は掠れた。

「螢、それはどんな子だ……?」

「若い女の子だ。縞のワンピースを着てる、白と水色の」

 届いた言葉は確信を呼び、心に戸惑いと不思議な感覚を呼び寄せた。

 どうしてだと思うが反面、嬉しさに似たものも込み上げている。感じたことのない緊張を伴って声は漏れ出た。

「螢、きっとそれは俺の妹だ。なぁ、妹は今どんな様子なんだ? 妹は一体俺に何を言おうとしてる?」


 一年前に去ったはずの妹。その彼女が、どんな姿でどんな表情でどんな言葉を発しようとしているのか、逸る心はそれを聞くことを強く切望していた。

 二度と会えないと思っていた失った家族。

 自分に見えなくともそこに彼女がいる事実は感情を昂ぶらせた。相手が零した溜息で我に返っても、その思いを止めることはできなかった。

「螢、教えてくれ!」

「言ったろ、与志人。おれにもよく分からない。でもそうだな……これは中間だ。この先彼女はどっちにも転ぶ。このまま消える存在にも、お前が見たことがあるアレにもな。水が上から下に流れるのと同じだ。そこにある、ないはずの〝もの〟は一番強い感情に逆らえずに、それだけの〝モノ〟になる。誰が望まなくてもな」

 その言葉に与志人は背筋が冷えるような感触を味わっていた。

 螢の言葉は大事な相手が望まない存在に変化へんげする末路を示唆した。

 それは自分が知り得る何よりも怖ろしいものだった。


「螢……」

 掠れる声で名を呼べば、相手が見上げる。

 もし妹が同じように道に迷ったとしたら。

 あの時示した望みは、今も変わらないはずだった。

 失った家族。彼女は自分達の前から去ってしまったが、思い出といういつまでも在り続けるものはどれだけ時が経とうと残されている。

 決心は揺らがないが、蘇った寂しさが微か過ぎった。

「……俺は妹にもう一度会えたら、もう一度話せたらと思わない日はない。だけどそんな思いが彼女を留まらせていたんだな……妹はもういない。俺が会える場所にはもういない。望んだとしてもそんな願いが現実になるっていうのは望ましいことじゃないんだな……あの時の感情は今でも残っている。それは今でも言葉で言い表せない。でも自分の身勝手な思いで、彼女が向かうべき道を阻むのは絶対許されないよな」


 告げると相手がゆっくり立ち上がった。

 こちらを見て秘やかな声で呟く。

 いいんだな?

 その問いに与志人は否定を返さなかった。

 重い声が闇に響く。

 耳の奥深くまで届いたその言葉が終わりを迎えても、最初から見えなかったものが消え去ったことは与志人にはやはり分からなかった。

 けれども微かに目に映ったその姿。

 彼の言葉どおり、そこに一縷の光があると信じたかった。


「螢……」

「ああ、おれも見た気がした」

 笑顔で消えた妹の姿。

 そう見えること、そう思うこと自体が生きている者が見る幻。だがそれが幻だとしても幻想だとしても、本当にそうであればいいと願わずにはいられない。それは確かだった。

 ありがとう。

 与志人は隣の影に告げた。

 その言葉を受け取った相手は長い前髪で表情を隠すと、無言で背を向けた。

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