9.因果応報
壁向こうで足音が響いた。
数人の足音は部屋の前で止まり、扉が開く。
先程自分達を拉致した男の一人が手にしたランタンを床に置き、扉近くに立つ。
残りの二人を従えて部屋に入ってきたのは初めて画面を通さずに姿を見る内浦隆俊だった。
「推測は合ってたみたいだな、与志人」
その姿を見て螢が小声で囁く。
内浦は室内に歩み入ると、傍の椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「どうも、こんばんは」
テレビで何度も聞いた声が響く。聞き取りやすい心地いい声だったが、与志人は素直にそう受け取れなかった。
斉藤の記事には多くの裏づけや証言が記載されていたが、それを手放しで鵜呑みにするのは早計すぎていた。警官という立場であればなお冷静な目も必要だった。
だが恐らく記事は真実を記していた。
目の前で軽い笑みを見せる男。
探られた遺体、荒らされた部屋、今夜の出来事。
そして今目の前にある男のその表情。
漠然とした疑念は消え、全てが繋がった気がしていた。
斉藤が死しても守ろうとした記事は真実だった。
「早速だが、あのフロッピーディスクを渡してもらおうか」
向かい合う男が悠々と告げる。
シラを切り続けることがこの相手に通用するとは思えなかったが、渡してはならないのは確かだった。
「フロッピーディスク? 一体何のことか分からない」
「そうやってとぼけても無駄だ。お前が先日国立図書館に行ったことは知っている。そこで何を借りたかもな」
「確かに何かを借りたかもしれない。でも他人にそれをどうこう言われる筋合いはない」
「ふふ、頑張ってるな。だが低学歴の警官如きが俺に言葉で対抗しようとしても無駄だ。諦めろ」
「何だか話が噛み合わないな。低学歴の底辺警官にも分かるように言ってくれないか」
「くだらない。こんな茶番じみたやり取りは時間の無駄でしかない。お前と違って俺は一秒ごとにスケジュールに追われる身なんだ。俺は自分の足元に集る蝿は徹底的に叩き潰す。それがほんの僅かな障害であっても変わらない。低学歴の底辺警官には分からないだろうが、上に立つ人間は常に計り知れない犠牲を払っている。いや、こんなやり取りすら無駄だ。話さないなら身体に訊くまでだ、おい」
内浦は傲慢だが隙のない男だった。
手にした権力に酔って、それに甘んじるような男ではなかった。
望むものが手に入らなければ手に入れられるまで相手を追い詰め、それでも従わなければ新たな策を錬り続ける。
そんな男が自らを脅かす秘密を知った相手を無事に解放するはずもない。どれだけ暴力を与えられようが、与志人にフロッピーディスクの在りかを言う気はなかった。しかしその暴力の矛先が隣の相手に向く事態を過ぎらせれば、心は弛んだ。
「なぁあんた。その子に何をした?」
その声が膠着状態の闇に響いた。
相手の口元が軽く笑みを浮かべた気がした。
「ああ? 小僧、お前何を言ってる?」
「内浦さん、だっけ……? あんたの後ろにいるその子だよ」
その言葉に内浦が視線を滑らせる。途端、それを待っていたかのように背後の男が吹き飛んだ。
男は壁に身を打ちつけられ、呻きを上げて動かなくなる。
残りの二人も同様、背後に引っ張られるように吹き飛び、次々に倒れ込んだ。
「な、何なんだ、これは……?」
「おれは彼女を知らないけど、あんたはよく知ってるんだろ?」
狼狽する内浦の身体が椅子からふわりと浮き上がった。
彼は驚愕の表情で身を捩るが、身体はそのまま浮き上がり、天井に顔面がひしゃげるほど押し潰されると次の瞬間、鋭い速度で床に叩きつけられていた。
「がっ」
男が呻きを上げ血反吐を吐く。
この間僅か数秒。
だがこれは終わりではなく、新たな制裁の始まりでしかなかった。
内浦の身体が再び浮き上がり、また叩きつけられる。それは何度も繰り返され、次第に部屋の空気が撹拌される様相を帯び始めていた。
吹き荒れる嵐を思わせるそれに巻き込まれた内浦の身体は幾度も振り回され、持ち上げられ、叩きつけられる。
目前のその光景はまるで悪夢でも見ているようだった。強風に身を任せるしかない男の身体は、見えない相手にただぼろ人形のように踊らされ続けている。
与志人は螢と部屋の隅に駆け寄ると机を倒し、身を隠した。そうでもしなければあの憎悪を思わせる風に一緒くたに呑み込まれてしまいそうだった。
「た、助けてくれ、誰か……し、死んで……」
男の必死の懇願が届くが、与志人は一歩も近づくことができなかった。
相手が悪人であるのは間違いないが見過ごすこともできない。でも自分にはあの風を避けて彼を助ける手段もない。
飽くなき攻撃を続ける〝彼女〟はきっとこの程度で許しはしない。
だが与志人の隣にいる相手も、男の声に何も反応を示さなかった。
「螢! どうにかしないとこのままだと内浦は死ぬ」
「死ぬ? それならそれで構わないんじゃないか? この男が死んでも誰も困らない」
「何だって?」
「あの娘に好きにやらせればいい。どうせ二人とも堕ちる所は
与志人は耳を疑った。
それはこれまで彼が決して口にしてこなかった言葉だった。
見遣った隣には冷然とした表情がある。
与志人は再びあのセピア色の写真を思い出す。
そして黒く塗られた精神鑑定書の束。
しかし、その記憶を吹き荒れる風と共に背後に押しやると声を上げた。
「そんなのが本望な訳ない! 死んだ彼女は俺の妹ぐらいの歳だった。誰だって幸せになる権利はある。けれど内浦のせいで彼女が得られるはずのそれは遠退いた。それは確かに悲劇だ、悲しい真実だ。彼女と歳が近いってだけで妹と重ねるなんて馬鹿馬鹿しいとお前は笑うかもしれない。だけど俺はこの見知らぬ彼女に人殺しの怪物になんかなってほしくない。もし妹が同じように道に迷ったとしたら、俺は全力で助けてほしいと願う!」
隣にある黒い瞳は何も言わずにこちらを見据えていた。
その視線は不意に逸らされ、呟きが漏れた。
「そうだな、俺も怪物にはなりたくない」
螢は机の陰から一歩出る。
強い風が彼の髪を乱し、酷く身体を揺らす。
でも何も譲らず言葉を紡いだ。
「罪深きわたしに贖罪を、彷徨う魂に一縷の光を望む」
あれほどまでに吹き荒んでいた風が止み、舞い上がっていた内浦の身体が床に落ちる。
呻くだけのその身体はどう見ても満身創痍だったが、生きてはいる。
先程までこの場で憎悪の嵐を巻き起こしていた気配は既にない。今は在るべき場所で安らかであるのを願うしかない。
内浦の犯した罪が今後どうなるかは分からない。フロッピーディスクの中身がたとえ表に出たとしても、それがどれほど影響を与えられるかも分からない。
ただ今夜の出来事があの男の心の変化へと繋がっていくことを今は強く願うしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます