8.囚われの闇

 後ろ手に拘束され、布袋を被せられた視界は役に立たず、耳に届く微かな音と感じる気配だけが頼りだった。

 外に出た後は大型セダンらしき車の後部座席に押し込まれ、車が走り出しても男達は一言も言葉を発しなかった。右側に密着する男は有無を言わせぬ雰囲気を醸している。左にいるはずの螢はシートに身を預け、身動き一つしないでいるようだった。

 いつもより近くにいるせいか何も見えないせいか、彼から漂う薬品のにおいが幾度も鼻を掠めていた。それは彼が咳き込む度増しているようにも感じられ、どこに連行されるかより懸念を覚えた。


 車は右左折を繰り返し、何度も停車した。届く音は僅かすぎて、現在地を推測するには至らない。何度目かの停車の後、ドアが開く音がした。身体で感じた移動時間は二時間弱。だが途中で方向感覚が曖昧になり、六十六区内を出てしまったのかどうかも分からなくなった。

 視界を遮られたまま車から引き摺り出され、幾度も躓きながら階段を上がった。饐えた臭い漂う場所で背を押され、拘束の手錠も外されることなく、扉の閉まる音だけを聞いた。


「与志人」

 螢の声が背後から届き、伸ばされた手が覆いを取り去る。

 闇からは解放されたが、そこも変わらぬ闇だった。

「……無事か? 螢」

「ああ、何ともない。おれは拘束もされず目隠しだけだった」

 問うと相手は手にした布を床に放り、微かな笑みを浮かべた。

「舐められすぎだが間違ってない。おれに何かできた訳じゃない」

「……随分弱気だな。珍しく」

「そう聞こえたか? おれは現実を言ってるまでだ」

 螢は肩を竦めると壁際に向かった。その足取りには疲労が垣間見え、彼なりにこの現状に疲弊しているようだった。

 与志人は闇に慣れ始めた目で周囲を見回した。

 部屋は十畳ほどの広さだが天井近くに明かり取りの窓が一つあるだけで、漏れ入る光もほんの僅かだ。暗がりになる部屋の隅には古びた机と椅子が置かれてある。

 身を捩って確認すれば銃にバッジに携帯電話、財布に腕時計まで取り上げられている。

 唯一の出入り口である鉄製の扉は無論外から鍵が掛けられていた。体当たりを挑んでみたが見た目どおり頑丈な扉はびくともせず、それは何度繰り返そうと同じだった。室内を幾度か見回してみたが、状況改善に繋がるものは何一つ見当たらなかった。


「一体ここはどこなんだ……」

 与志人は後ろ手の拘束を気にしながら冷えた床に腰を下ろした。

 壁に寄りかかっていた相手は間を置かず答えを戻した。

「ここは燐是だ」

「燐是? どうしてそう言える?」

「においがするんだよ、独特のな。これは鼻で嗅ぎ分けられるものじゃなくて土地に染みついてるにおいだ。ぐるぐる走り回って場所の特定を避けたつもりだろうが、言われなくても分かる」

 与志人はその言葉を確かめるべく部屋の空気を嗅いでみた。けれど役立たずの鼻腔は饐えた臭いを拾うだけで何も感じ取りはしない。半年の間に燐是の気配を知ったつもりでいたが、そうでもなかった。安易な自負は消え、暗闇で溜息をつくことしかできなかった。


「あの男達はなぜ何もしてこない?」

「さぁ? 飯でも食ってるか、不安を煽るつもりかそのどっちかだろ」

 その真相は明らかになることはないだろうが、そう意図されたのだとしたら効果はあるはずだった。

 男達は目的も言い渡さず、捕らえた相手をこの闇に放置している。

 室内は外部の音も届かず、時間の経過も計らせようとしない。終わらない静寂は益々時の流れを曖昧にしていく。

 自分達が連れ去られた理由があのフロッピーディスクであるのか今も分からなかった。現状ではそれを確かめる術もない。だが真実がどうであれ直面した事態に対応していかなければ、最悪を迎える結末はこの先に手ぐすねを引いて待ち構えているはずだった。

「なぁ与志人」

「何だ」

「お前、何を知ってる?」

 闇から届いた声に与志人は咄嗟に答えられなかった。動揺も覚えていたが、勘のいいこの相手に気づかれるのは時間の問題だった。

 現状の理由は依然不明だが、自分が知り得た事実にその可能性の一端はある。螢にはそれを問う権利があり、自分には答える責任があるはずだった。


「螢、俺は……」

 与志人は闇の中で語り始めた。

 斉藤が遺したフロッピーディスク。その中身を確認したのは部屋を荒らされた翌日のことだった。

 前々時代の文書作成器機は十年前に七等保管物に指定され、新慰東京国立図書館に保存されていると分かった。早速閲覧の旨を伝えて図書館に向かうと、以前知り合った職員が細かい手続きをあれこれ助言してくれたのは助かったが、件の事件に関して根掘り葉掘り訊こうとするのを躱すのに少々苦労した。

 無人の閲覧室でようやく確認できたフロッピーディスクの中身は、斉藤が書き残した未発表の記事だった。およそ五十頁にも渡るその内容は三流ゴシップ誌が諸手を挙げて悦びそうな醜聞の類だった。

 記事の主役となっていたのは内浦うちうら隆俊たかとしという男だった。

 与志人は彼を知っていた。でも彼の名や姿を今やこの街の多くの人が目にしているはずだった。


 弱冠三十二才で新慰東京最大の複合企業のトップとなった彼は、常に世の羨望を集めている。

 二十二才で人材派遣会社を興し、それから十年も経たない間に多様な業種を従えるまでになった。独身で見た目もよく、誰もが羨む交友関係や彼を取り巻く美しい女性達の噂も絶えなかったが、起業当時から続けている慈善活動の影響は大きく、嫉妬ややっかみで足を引っ張ろうとする者は逆に非難される流れにもなっていた。

 実際与志人も内浦に対して、メディアに頻繁に登場する顔のいい若社長ぐらいにしか思っていなかった。しかし斉藤が記事に書き顕した内浦の姿は、これまで彼が世間に与えてきたその実像を覆すものだった。


 今では誰もが認める大物になった内浦だが、出発点となった人材派遣業には現在も多くの時間を割いて関わり続けていた。人材派遣と言ってもその業務内容は華やかで、雑誌やショーのモデル、若手女優や新人歌手の育成に特に力を入れていた。それらの業界全てに多大な影響力を持つ内浦の元には、夢を追う多くの少女や女性達が常に集まっていた。

 当然そこから羽ばたいて有名になった者も多々いる。だがそれは華やかな舞台のほんの一部にすぎず、内浦はその裏で若い女性達の肉体を次々に搾取していた。

 内浦が狙いをつけたのは十二才から十五才までの少女ばかり。しかし意に沿わない行為を受けたはずの彼女達から被害の声が上がることはなかった。

 内浦は彼女達を黙らせるためにとりあえずそれなりの仕事を与え、仕事がなくなった後も親や本人に多額の金を積むことで訴訟や暴露を回避してきた。無論金で動かない者もいた。そんな時は政界や司法界、これまでに培った人脈を使って内浦は全ての芽を摘んできた。経営だけでなく、彼はそのような人心掌握にも長けていた。


 元々ゴシップ記事専門だった斉藤は人々の羨望の的である内浦の綻びを探ろうと、事あるごとに彼を追い続けていた。

 斉藤はその中で一人の少女が自殺したのを知った。女優を目指していた彼女は五年前に内浦の元で最後の仕事をした後、故郷に戻っていた。一年前手首を切って自ら命を絶った時、彼女はまだ十九才だった。

 興味本位で少女の取材を始めた斉藤だったが、彼女の死の真相を探る内に内浦の隠された裏の顔を知ることになった。内浦の手に落ちた時、彼女は女優になることを夢見ただけの十五才の少女だった。

 将来を閉ざされた娘が死を選ぶしかなかったのに、そうさせた男は今ものうのうとセレブ生活を満喫している。斉藤が取材を始めたきっかけとなった動機には嫉妬のようなものが入り混じっていたのは確かだったが、それでも彼は建前となる義憤を盾に事実の裏を取り、内浦を告発するべく密かに準備を整えていった。でもそんな彼に一体何が起きたのか、結局記事は日の目を見ることなく葬られる寸前に至っていた。


 記事を読み終えた与志人は、他人の日記を盗み見た気分にもなっていた。

 斉藤の文章の合間には、次第に変化していくこととなった彼自身の思いも綴られていた。

 他人の醜聞ばかり追ってきた男。そんな男が死を選ぶしかなかった少女に寄せた思い。時折自虐的にも響いたそれは、彼がこれまでしてきたことへの悔恨であり懺悔でもある気がした。終盤には内浦への妬みも消滅し、少女の夢や希望を奪った男に向けた真剣な告発の言葉が綴られて記事は終わっていた。


「そうか、分かった」

 与志人が全てを語り終えると、螢はそれだけを言って黙した。

 暗がりで窺う表情は何かを考え込んでいるように見えるが、彼がどう思ったかまでは分からなかった。それにこの記事と現状が関わっているか未だ分からない。これから何をすべきかを思い巡らせようとした時再び声が届いた。

「与志人、今夜行ったあの場所だが」

 隣の相手は、何もない天井を見上げている。

 その場所に語りかけるように言葉を続けた。

「今夜のあの場所には何かがいた。だけど与志人が今言った件とは多分関係ない。今回の怪しい案件、この現状。おれも情報の取捨選択に迷っているが、でも……」

「でも?」

「でも今、記事に書かれてた娘がその男と一緒に来たようだ」

「え?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る