7.宮川ビル三階

 宮川ビルは思ったより街外れに建っていた。

 周囲には、昼間はそれなりに人の出入りがあるであろうテナントビルが建ち並んでいる。けれど十時を回った現時刻では人の姿もなく、街灯の他に明かりを灯しているのは斜向かいにあるコンビニエンスストアだけだ。白々とした照明が灯る店内に客は二、三人ほど。でも立地や時刻を思えばそれで妥当なはずだった。


「ここだな」

 与志人は掲げられたビル名を確認すると建物を見上げた。

 宮川ビルは角地に建ち、密接する建物の反対側には車一台分ほどの路地がある。街灯が一つあるだけのその奥は深い闇が続き、何があるかも見通せない。

 螢も隣でビルを見上げていた。その横顔は何を考えているのか掴みどころがなく、顔色は相変わらず悪く映った。

「階段じゃないと上には行けないのか?」

「ああ、残念ながらエレベーターはない」

 ビルの一階は空きテナントだった。下ろされたシャッターには剥がれかけの入居者募集の貼り紙がある。上階に向かうには脇にある急な階段を使わなければならず、すれ違いもままならない幅狭の段を少々苦労しながら上った。二階の踊り場に差しかかった時、螢が不意に咳き込む。それが止むのを待って、狭い通路が続く三階に上り詰めた。


 目的の場所は奥の部屋だった。

 灯りが消えた扉を二つ通り過ぎて、部屋の前に立つ。

 あらかじめ解錠されていた扉の先には長方形の部屋があった。ライトで照らした内部には残されたものも散乱したゴミもなく、その整然とした様子はまるで清掃したばかりのようにも映る。

 与志人は部屋の中央に立つと、その何もない空間を見回した。

 澱んだ重い空気、見えなくても感じる原始的な畏怖。

 これまで訪れた場所には肌を這うそんな気配が漂っていた。

 染み込む気配の記憶は消えることなく、出遭う度に刻まれていく。それはこの職の経験が浅くとも分かっているつもりだった。

 でもこの場所にはそれがない。あるのは微かに抱き始めた疑念だけだった。


「螢、どう思う?」

 与志人は背後に問いかけた。

 同じように部屋を見回した相手は、こちらを見上げて返事を寄越した。

「異臭や異音の苦情は二階と四階から出てるんだろ?」

「ああ、そう報告を受けてる」

「だが二階には誰もいなかった。恐らく二階も同じ空き部屋だ。それとお前も気づいてるだろうが、この建物は三階建てだ。四階はない」

 与志人は部屋唯一の窓に歩み寄ると、ブラインドを上げた。

 見下ろした場所にはビル一棟分の空き地がある。そこには苦情が出ているはずの建物など存在せず、茂った雑草を夜風に揺らすその様子からも昨日今日そうなったようには見えない。

 場所の誤認はしていない。苦情先の情報だけが違うのか。そんな考えを過ぎらせても疑念のみが大きくなる。

 再度背後に目を遣ると、相手の黒い瞳が慎重に見返していた。

「説明で聞いた気配はここにはない。与志人、報告は合ってるのか?」

「住所は間違ってない。報告書も正式なものだ。しかし、お前が違うと言うなら一度場所の確認を……」

「違う、与志人、そうじゃない。そうじゃなく、ここには話に聞いていた気配がないだけだ。いない訳じゃない。ここにいるのはさっきから……」

「螢」


 その言葉を与志人は手を翳して止めた。

 続けて緊張を走らせれば、じきに相手は同意を返す。

 部屋の外にある気配。

 その場所でこちらの様子を窺う何者かの気配は、明らかに生きた人間のものだった。

「螢、俺の後ろに」

 ライトを消し、与志人は銃を抜くと相手の気配を探った。

 扉向こうで息を潜める何者かは一人ではなく複数人のようだった。でも通路の狭さから考えても多くて二、三人のはずだ。

 相手は扉越しでも伝わるほどの明らかな殺気を放っている。そんな彼らを躱して脱出するにも、出口は入ってきた一箇所しかなく、三階の高さでは窓から出ることもできない。何者かが苦情を言いにきた住人であるのを微かに願うが、その可能性は無いに等しい。


 なぜこんなことになったのか。

 与志人は闇で思考を巡らす。

 辻褄の合わない現場、逃げ場のない袋小路に誘い出された自分達。

 脳裏に思い浮かぶのはあのフロッピーディスクだった。

 数日前、与志人はその中身を知った。斉藤公紀が遺した文書の中身を知った。

 螢宛である理由までは分からなかったが、彼が死に際にこれを誰かに托さなければならないと感じた訳は想像に難くなかった。

 扉向こうの連中の目的は今も分からない。だがもし全ての要因がフロッピーディスクであるなら、今夜自分達をここに向かわせた指示の出先に暗澹とした思いが過ぎる。

 フロッピーディスクは帰省した際、妹の墓に忍ばせてきた。部屋を荒らされて以降、身辺にも気を遣っていたつもりだったが、きっと何もかもが足りなかった。その油断が今夜の出来事を生み、結果螢まで巻き込んだ。それには再度の悔やむ思いが漏れるが、それならば尚更現状をやり過ごすことに集中しなければならなかった。


 突然前触れもなく、ドアが開け放たれた。

 与志人は銃を構えるが、直後閃光が走る。

 目が眩み、何も見えなくなる。

「与志人!」

 螢の声が響いた。

 部屋になだれ込んだ男達の気配が脇を通り過ぎ、未だ目も開けられないまま頭部を鈍器のようなもので殴打される。倒れるのはぎりぎりで堪えたが、両側に立った男達に素早く腕を捉えられた。

「暴れるな。抵抗すればお前より少年に」

 男の一人が耳元で囁く。

 その先を言われずとも相手の言葉に従うしか与志人に道はなかった。力を抜けば、頭に布袋のようなものを被せられる。

「螢、大丈夫か?」

「ああ、おれは平気だ。心配するな、与志人」

 呼びかけには相手の変わらぬ声が応える。

 それには僅かばかりの安堵を覚えるが、依然状況は最悪でしかなかった。

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