6.夜道
「案件番号二二九。場所は四十二区
与志人は今夜の案件の概要を走る車の中で伝えた。しかし背後から戻る反応はない。
ルームミラーで様子を窺うと、相手と鏡越しに目が合った途端反応が戻った。
「それ、おれの仕事か?」
切り取られた暗い背景の中、少年は不機嫌に応えている。退屈そうな大欠伸をして、その横顔を見せた。
「依頼がちゃっちくなってないか? もしかしておれは便利屋か? 何だかいいように使われている気がしてならない。そういうことでどっかのガキ共が入り込んで騒いでる方に五万点」
「そう言うな。もしそれならそれでいいが、違うなら……」
「分かってる。ガキの皮肉っぽく言ってみただけだ。おれはどこにでも行くよ、大倉刑事。夫婦喧嘩の仲裁だろうが、中学生の自転車窃盗現場だろうが、迷子の婆さんの道案内でもな。知らないだろうが、おれは路上の水溜まりみたいに心が広いからな」
一見いつもと変わらぬ悪態が続いたが、それは相手がシートに深く寄りかかった気配をさせて止んだ。
背後はまた静まり返り、そこから長い溜息が聞こえた気がして沈黙はより深くなる。
フロントガラスの向こうでは街の灯りが闇に止むことを知らず瞬いている。
儚い色を残して青白く光るネオン。その色はベッドに横たわる少女の姿と重なった。
大丈夫か、と訊ねれば伏せた瞳の持ち主は静かに頷く。だがそうでなくても彼女は頷くのだろう。愚問しか思いつかなかった自分の姿は、病床の妹の傍で同じく佇んでいた姿を思い出させた。重なって蘇る過去への悔恨は、闇へと走る気分を更に重くさせた。
流れる街の灯りはどこまでも華やかに続いていく。
そこに見えるものと自分が向かう先にあるものとの違和感。
時折感じるそれと消えない悔恨は、返答を問う者に与えることなく漂い続けていた。
「なぁ、与志人」
背後から届いた声は生産性のない思考を望むべく中断させてくれた。
僅か顔を向ければ、鋭利さが幾分和らいだ声が続いた。
「お前、最近手痛く女性を振った覚えはあるか?」
「何だ、今日はそんな話ばっかだな。もしかしてそれは俺が自爆するまで続くのか?」
相手から思いがけず緊張感のない言葉が届き、与志人は苦笑を零す。
まさか本気とは思わず冗談めかして答えたが、続く笑いの気配はない。仕方なく肩を竦めると与志人は背後に答えた。
「ないよ、大体振ったことはない。俺はいつも振られるばっかりだ」
「珍しく自虐的だな。いや、忘れてた。元々被虐趣味だったか」
「勝手に分析するな。それよりどうしてそんなことを訊いた?」
「別に……単に暇だったからだ。深い意味はない……でも、これは何だ?」
問いと同時にかさかさとビニール袋の擦れる音が聞こえ、与志人は自分でバックシートに置いていたものの存在を思い出した。
慌ただしかった週末の帰省。駅の売店で急いで買ったものだった。
「ああ、それは土産だよ。先週末実家に戻ってたんだ。俺の地元の名産。うまいのは保証する。お前、食うのは好きだろ?」
「これ、饅頭か……」
「甘いものは嫌いか?」
「あまり食わないだけで嫌いじゃない」
「なら、よかった。ある程度日持ちはするが早めに食えよ」
告げると返事はなかったが、傍らに袋を置く音がした。続く声は溜息混じりに届いた。
「遠いな」
「早逆は燐是の反対側だからな。もう少しかかる」
「そうじゃない、お前の実家だよ」
売店の袋には地名が大きく書かれていた。届いた声が指していたのはその故郷のことだった。
「ああ、まぁな。そう頻繁に帰れる距離ではないな」
「両親がいるのか」
「いるな。一応元気でやってたよ」
「どんな所だ」
「いい所だよ。食いものがうまくて山と海の両方があって、その代わりに都会と比べたら欠けるものだらけだけどな。だけど住んでる時は何も思わなかったけど離れてみたら分かったよ。時々無性に帰りたくなる」
「じじいみたいなこと言ってるな」
「いずれ分かることを早めに理解したってことだ。悪いことじゃないだろ?」
「まぁ、ものは言い様だな」
「お前は、新慰育ちなのか?」
話の流れで訊ねていた。
珍しく他人の家族のことを訊いてきた相手。
彼の内情について訊ねてみる希有な機会だと思ったそのことは否めない。けれどまともに返すはずもないと心の片隅で思った。
「言いたくなければ別に言わなくてもいいさ」
「いいや、別に内緒にする話でもない。言って廻ることでもないけどな。生まれはそうだが十六まで離れてた。お前の実家よりずっと田舎にいた」
意外にも返事は戻った。
だが初めて垣間見せた彼の過去の事情には緊張も覚える。自ら踏み込んだのは間違いないが、惑いも継続していた。
「そうか、それは家族の都合でとかか……?」
「そうだな、まぁ言葉を選んで言うが、所謂山奥の隠居生活みたいな暮らしだった。もう何代も続くことだが家業を継ぐと決まった地堂家の男子は幼い頃からそうやって隔離される。十六年間生活を共にしたのは
「そ、そうか……」
「他に質問はないのか。この頃の話が聞きたいんだったら話してやってもいい。おれは何でも答えるよ。楽しかったり笑えたりする話はまぁ皆無だけどな」
与志人はその言葉に何も応えなかった。
ここから先を聞くには新たな覚悟を必要とする。今いるのは自分が踏み込める境界の限界線上。これ以上問うことはしてもいいのか、やめるべきなのか。
書類上でしか知る術のなかった彼の事情。
このまま行けば紙に書かれていなかった事実に触れることになるかもしれない。
十六まで新慰東京を離れていた。
しかしここでのキャリアは九年。
『おれはお前より一つ年上だって言ってるだろ。この業界だっておれの方が長い』
今踏み出せば、これまで無いものとしてきたそれにきっと近づく。
目は逸らしたくない。そう思っていた。だが……。
「時間切れだな、与志人。失望を拒むなよ」
躊躇う背中に最後通達が下る。
留まる惑いは依然迷いを継続し、長く重い数秒間は過ぎ去っていた。
再び車が停まるまで、黙した闇から声が届くことはなかった。
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