5.『少年』の横顔

 気に留めていなかったというのはあり得なかった。

 夕闇迫る燐是の街に与志人は車を走らせていた。

 二人のことはいつも脳裏にあった。無論水餓のことは一番の気がかりだったが、あの夜の螢の言動も未だ心に残っていた。


『何も知りもしないくせに余計なことは言うな』

 年相応の面と、時に見せる似つかわしくない大人びた表情を合わせ持つ少年は、如何様な場面でも冷静さを失うことはしなかった。けれどあの夜は感情を顕わにし、それを取り繕おうともしなかった。

 出会って半年、地堂螢という人間に対してまだ確かに知らないことの方が多い。

 一見隠しごとをしているように見えなくても、不明瞭に思う部分が多くあるのは確かだ。でもだからとその部分を敢えて白日の下に晒そうとは思わない。しかしいつかその部分を垣間見なければならない時が来たら、それがどんなものであっても目を逸らしたくないと思っていた。


 車窓から見える景色はホテル近くのものに移り変わっていた。

 赤と白のサインが掲げられた古びた店舗が目に入る。その前に見覚えのある背中がある。与志人は車を路肩に寄せると窓を開けて声をかけた。

「珍しく自分で買い出しか?」

 呼びかけに相手はちらりとこちらを見るが、何も言わず視線を戻す。

 夕暮れの街並み、少々小さなその背中は増え始めた闇に同化しそうになっている。

 与志人は車を降りると、店先に立つその一人しかいない客の隣に並んだ。

「親父さん、俺も同じの一つ」

 歩道に面した小窓から声をかけると、初老の男が頷く。薄くなった金髪を束ね、太い両腕に勇ましいタトゥーを施した『相馬デリ』の主人はいつも無口だ。新たなパンをナイフで切り裂くその姿を横目に与志人はもう一度声をかけた。


「調子はどうだ? 螢」

「元気だよ。大倉刑事」

 螢は今度はちらりとも見ずに言葉を戻す。

 とりつく島もないように感じたが与志人は続けた。

「そうか、それじゃ水餓は……」

「水餓はホテルにいる。会いたきゃ会っていけばいい」

「まぁ確かにこの後ホテルには行くが、そうじゃなく、あれから彼女の具合は?」

「おれには分からない。本人じゃないから」

「それはまぁ、そうだろうが、俺はただ彼女の……」

「今のは嘘だ。もうよくなってる。けど今晩の仕事には出ない。別に構わないだろ」

「あ、ああ……」

 戻る言葉の素っ気なさには、いくら打たれ強くとも心を挫かれそうになる。

 向けた質問に一応返事は戻るが、予想以上にとりつく島もない。与志人は相手に聞こえないよう軽く息を吐くと再度隣を窺った。

 そこに見える横顔は酷く冷然として映る。それはあのセピア色の写真を思い出させた。同時に黒く塗られた精神鑑定の束が過ぎり、でもすぐにそれは頭から掻き消した。


「何だよ、何見てんだ」

「べ、別に……」

「振られすぎて宗旨変えでもしたか? それも一理あるが身近な所で済ませようとするなよ。一応言っとくがおれはヘテロセクシャルだ」

「だ、誰もそんなこと言ってないだろ!」

「グラッツェ」

「は?」

 戸惑ったがそれは自分に言ったのではなく、デリの主人に言ったものだった。

 螢はサンドイッチを受け取り、手早く代金を払うと会話途中の相手など気に留める様子もなく歩き始めていた。

「おい、ちょっと待てって!」

 与志人は続けて出来上がった商品の代金を手際悪く払うと急いで車に戻った。

 エンジンをかけ、誰もいない車道を相手の歩調に合わせてアクセルを踏む。並んだ車に一瞥くれただけの相手は何も言わず、乗ろうともしなかった。


「なぁ、すぐそこだけど乗ってけよ」

「ナンパか? やり方を変えたのは評価するがおれの貞操が心配だから断る」

「そんな訳あるか!」

「冗談だ。毎度毎度馬鹿みたいに熱くなるな。本気だったように見える」

 与志人は何とも言い難い思いを抱えて歩道の相手を見る。

 その表情、言動。いつもと同じに見えて少し違う。

 断片的すぎる言葉はどこか不安を煽る。

 歩道と車道。物質的ではなく感情的に遠離りつつもある平行線。

 それを辿りながら与志人は次の言葉を探していた。


「それ、オマケか?」

 デリの紙袋を探っていた螢は中から棒付きの飴を取り出していた。

 包み紙を剥がし、桃色をした甘いそれを納得のいかない表情で一舐めする。続く言葉はやや困惑の色を持って響いた。

「あそこの親爺はおれのことをガキだと思ってる。いつもこれをくれる。もう九年も通ってるのによ」

「それはまぁ、お前が童顔だからだろ」

「ああそうだな、もしかしたらそうなのかもしれないな……」

 見慣れない表情が相手の顔を掠めた。

 与志人の心にもぎこちない感情が過ぎった。

 夕闇近いホテルまで後数メートル。

 最後まで螢は車に乗ることもなく、与志人も強く勧められずにくすんだ建物の足元に到着していた。

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