4.地堂紫露
あの人がここで何をしたかもねぇ。
舗道を歩きながら螢は老婆の言葉を思い返していた。
アンタのじいさん、あの人。
老婆がそう呼んだのは先代である地堂紫露のことだった。
螢は彼に直接会ったことはなかった。曾祖父の兄である彼の死後、入れ替わるようにこの街に来た。だが会ったことはなくても、彼がどんな人物であるかは知っていた。
社交性に長け、全てに於いて突出して優秀な人物であったのは確かだが、まともな人間ではなかった。それだけは言える。
老婆が示唆したとおり、彼が晩年にしたことを思い出せば自然に表情が歪んだ。
「おい、お前、アレ、持ってないか……」
届いた微かな声が足を止めた。
目を向けた暗い路地には一人の男の姿がある。
「な、無いなら金でもいいんだ……だ、出せ……」
汚れた衣服に裸足、暗がりで一瞥しただけでもみすぼらしい男と分かる。食事よりもそれとは〝違うもの〟を摂取し続けているらしい男は、青黒い顔でふらつきながら立っていた。
「金ならやるよ、とっととどっか行け」
成れの果てという言葉が何よりも相応しかった。その手には脅すための武器も気配もなく、軽く押しただけで倒れそうな男の目前に螢は持っていた紙幣をばらまいた。
「や、やった……」
男は地面に膝をつくと、慌てるも緩慢な動作で落ちた金を拾う。螢は見下ろした男のその背にこの街が内包する底のない闇を見ていた。
何もかもに恵まれた楽園。それとは対極にあるこの街にその夢を見る者はいる。
自ら足を踏み入れた者は他では望めないものを手に入れるために、他では感じられないものを手にするためにここを訪れる。
だが、それはやはり対極にある。
手にしたとしても全て幻覚の中。
醒めれば何よりも冷酷な現実が待っているだけだった。
「あ、あるんなら、早く出せばいいんだ……あの、化け物女……あのツギハギ……最初から出してれば……あんなもの……見なくて済んだんだ……」
男の呟きに螢は動きを止めた。
相手は未だ覚束ない動作で金を拾い続けている。
届いた言葉には何の意味もないのかもしれない。中毒者のただの戯言かもしれない。
けれど耳に絡った二つの言葉。それを無意味なものとしてやり過ごすことはできなかった。
「おい」
呼びかければ、男がのろのろと顔を上げる。
濁ったその目は男がこの街で辿った経緯を色濃く物語っていた。黒く汚れ、痩せ削げた顔が思うより若いと気づいても、そんなことは最初からどうでもいいことだった。
「お前には死相が出ている」
「し、そう……?」
男は握った金と、目前の相手を交互に見て思考の残滓を巡らす。
考える力が男に残っていたことを螢は誰にでもなく感謝する。綴る言葉は笑みさえ湛えながら続けられた。
「そうだ、死相だ。でも何も心配はいらない。お前が死ぬのはまだ先だ。だがお前は既に身も心も病んでいる。言うならば生きながら死んでいるも同然だ。けれど心配するな。お前に死はまだ訪れない。しかしお前にこの先明るい陽が射すこともない。這い蹲って金を拾う自分の姿を自分で見てみろ。それがお前の姿で、お前の変わらぬ本質だ。死相は出ているが、心配するな、死ぬことはない。お前はそのみっともない姿でまだまだ生きていけるんだ。だから心配はするな、死ぬことはないんだ」
男の開いた口が徐に閉じられる。
染み込んでいく言葉がそうさせる。
心の中心まで辿り着いたその言葉は、男の表情をどこまでも凍りつかせた。
うああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……。
吐き出された叫びは気づいたその深さと同等に続く。
頭を抱え、絶叫し続ける男に背を向けて螢は歩き出した。
発したのは呪いの言葉。
それによって男は〝それ〟に気づいた。
終わることのない絶望。
生きながら味わうそれは死の先にもない深い苦を意味していた。
「心配するな。それはおれだ」
螢は夕闇に呟いた。
自らが罪を背負っているからこそ今も呪われ続け、苦しみ続けなくてはならない。
普段は目を逸らしているが、それが地堂家に続く呪いの本質だった。
『あの人がここで何をしたかもねぇ』
地堂紫露が晩年に犯した最大の罪は燐是の大穴だった。
穴を塞いだのは紫露だったが、開けたのも紫露だった。
多くの人々を厄災に巻き込んだその出来事。
自作自演を平然とやり遂げ、その後も変わらぬ日々を送り続けた彼はまともではなかった、それだけは言える。
彼の行為を理解するのは不可能だったが、歳を重ねるごとにその思いも変わっていた。
彼と同じにはなりたくない。でもその足元へと自ら歩み寄っている気もしている。
「それはおれだ」
螢は再び呟いた。
暗い路地に響く男の叫びはいつまでも続いていた。
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