3.ろくでもないこと
「ちょっとそこの、お前だよ、おい、小僧待ちな」
ロビーを横切る足を止めたのはその声だった。
目を向ければ白髪の老婆の姿がある。
派手な色遣いの長いワンピースと、幾重にも重ねられた首飾り。
そこで睨みを聞かせる相手に螢は殊更ゆっくり向き直った。
「うるせぇな、おれは小僧じゃねぇって言ってるだろ、クソばばあ」
自称占い師、自称ミザリーと名乗るこの老婆は、螢がここに来る以前からこのホテルに住み着いていた。
当時はフロント係紛いの男も怯えた目の子供もおらず、一人の姿のいい若い売春婦が三階の一室を根城にしていた。でもある日彼女はミザリーと激しい口論をした後に忽然と姿を消した。数日後、老婆の部屋からは凄まじい臭気が漂っていた。中を密かに覗き込めば、そこにはいなくなった売春婦がいつも身に着けていたルビーのペンダントを首にかけ、ぐつぐつと煮たった大鍋の中身をぐるぐると楽しげに掻き回す老婆の姿があった。
「あ、違った。クソばばあじゃなくて人喰い山姥だった」
「は? 何だって? まったく口の減らないクソガキだ!」
ミザリーは言いながら床に唾を吐き捨てると、横掛けにした薄汚れたポーチから手巻き煙草を取り出した。度々その出所を自慢する銀のライターで恭しく火を点ければ、たちまち辺りに独特な香りが漂った。
「やめろ、こっちまでハイにするつもりか」
「ああ? 何言ってんだよ、アンタはもうちょっとイイ気分になった方がいいんじゃないのかい? お前さんからは嫌な気が漂って来るんだよ。まぁあんなことを生業にしてるから、しょうがないとも言えるけどねぇ」
「ふん、あんたはいつもハイになってなきゃどうにもいられないんだろ? おれはそんなものに頼らなくても充分やっていけるんだよ。愛と平和はそんな所にはないしな」
「ああ……本当に小憎たらしい小僧だ。ちったぁ、ガキらしい口、利いたらどうだい?」
悪態と共に今度は痰を吐き捨てると、老婆は煙も盛大に吐き出しながら醜悪とも言える笑みを浮かべた。
「そういえば今日連れはどうした? あの娘、いよいよくたばったかい?」
「生きてるよ、どーも。お気遣い感謝するよ、クソばばあ」
「本当に口が減らないねぇ」
「話はそれだけか? こんなクソしょうもねぇ話でおれをいちいち呼び止めるな。大体大した用もないならおれを呼ぶな。できればこの先一生呼ぶな。もっとできれば、あんたの老い先短い人生からおれの存在を抹消してくれてもいい。そう望むね」
ミザリーは顔を合わせればいつもこうやって難癖をつけて近づいてくる。同じ階に住む隣人が何を生業にするかを知る彼女は、他愛ない話を装って逐一こちらを探っているようにも見えた。
極力人と関わろうとしない燐是の住人を倣って、螢はこの老婆を極力避けている。遅すぎる捨て台詞を放って扉に向かおうとしたが、背に嗄れ声が再び届いた。
「おい悪たれ。アンタ、疫病神って知ってるか」
足を止めて振り返れば老婆は悠然と煙を吐き出している。その姿には既に苦笑も出ない。螢は冷笑を片頬に貼りつけた。
「ああ、知ってるよ。あんたのことだろ? 占われた奴はどいつもこいつも不幸になるって、もっぱらの噂だ」
「あら、そうかい? アンタの耳にまでその話が届いてるってことは、あたしも随分有名になったと思っていいのかねぇ、イヒッヒッヒッヒッヒッヒッ」
引き攣るように笑うその姿は、意味のない言葉を垂れ流す狂女にも見える。この相手と関わっても善きことがないのはもう九年も前から知っていた。再び足を止めてしまった愚行には後悔しか感じなかった。
「なぁ小僧、あたしにとってアンタの存在そのものが疫病なんだ。だからさぁ、頼むよぅ、お前さんはウチの孫には近づかないでおくれよぅ。望はねぇ、感受性ってものがちょっと人より強いが、まともなんだ。あたしやアンタとは違う代物なんだよ。娘があの子をほっぽり出したからしょうがなくここに置いてるけど、まだ小さな子供だ。これから選べる未来があるってもんさぁ。けど、あたしらみたいなのに関わってたら、そのまともな道も選べやしない。アンタだって本当は分かってるんだろう? 分別のつく、いい大人なんだからねぇ」
「知るかよ。望がいつも勝手にくっついてきてるだけだ」
「そういうもんさぁ。人間は強い〝気〟を持つ場所に行きたがる。それが〝いい〟気じゃなく〝悪い〟気だったとしてもねぇ」
そう告げる老婆は顔中の皺を総動員させて笑っていた。
彼女が発する言葉は全て〝負〟の気を放っている。それらは彼女が占いと称する戯れ言や床に吐き捨てられる痰や唾と等しく、こちらをただダウナーにさせた。
「おや、悪酔いさせたかい? すまないねぇ」
「話はこれで終わりか、ミザリー。くだらねぇ話で足止めしやがって。孫思いを装おうが、か弱く装おうがてめぇの保身が見え隠れしてる。偽善って言葉知ってるか? このクソばばあが」
「ああ、そうかい。アンタがそう出るんならこっちだって出方を変えるよ、地堂螢。あたしはアンタの生業のことも、アンタのじいさんのことも、よーぉっく知ってるよ。あの人がここで何をしたかもねぇ……イヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッ」
薄暗いロビーで笑い続ける老婆は、そこで埃を被る調度品と不気味な調和を見せている。
螢はもう二度と振り返ることなくその場を離れた。
しかし扉の外に出ても耳に残る笑い声を振り払えない。
自分の愚かさに再々度眉を顰めると、螢は夕暮れの街に足を速めた。
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