2.九年前・九年後

 カーテンを開け放った寝室は、曇り空でも目が眩んだ。

 下に見える夕刻の街は、いつもどおりくすんだ色を放っている。

 少女は瞼を閉じ、死体のようにベッドに横たわっている。

 シャツのボタンを外した胸元は、より青白い。

 螢は傍らに立つと彼女のその首を一回りする古い縫い跡を見下ろした。

 薄荷の香りが鼻腔を掠め、過去の記憶が呼び覚まされる。

 九年前、初めてこの街を訪れたあの日。

 車窓越しの景色は森のざわめきしかない地から、人々の暗い呻きが響く湿った街へと移り変わっていった。

 一言も発しなかった運転手に何も告げられず車を降ろされ、辿り着いたホテルのロビーで青白い顔をした少女と出会った。


『わたしは水餓といいます。水に餓えると書きます』


 静かな雰囲気を纏う少女は大きな感情のない声でそう言った。

 十六才の少年の目にその姿はとても美しく、そしてどこまでもおぞましく映った。

 ここに来ることはずっと前から自分に定められていた。

 先代が死ねばいずれは来るはずだった日。

 そう何度も自分に言い聞かせてきたが、実際に訪れたこれからの日々を果たして耐えられるだろうかと思った。


『おれは……螢だ。地堂螢』


 声は恐らく震えた。あの日いたのは間違いなく少年で、虚勢を張りながらホテルの汚れた絨毯の上に立っていた。

 その日からこの街での張り詰めた毎日が始まれば、これまでそうしてきたように誰にも心を許さず、片鱗を見せることもしなかった。一定の距離を保ち続ける彼女は顧みられずとも、いつも傍でその身を潜めていた。

『具合は……気分はよくなりましたか』

 そのような日々が数ヶ月も続いたある日、己に対する過信と不覚を重ねて事切れたように倒れ込んだのは、ベッドの上ではなく床の上だった。

 目を覚まして見上げれば、彼女は丸一日気を失ったように眠っていたと告げた。その時蘇ったのは意識を手放す瞬間、彼女に抱き留められた自分の姿。それを思い出せば取り返せない羞恥で身体が熱くなった。


『ずっと、そこにいたのか……?』

『ええ、望まれなかったかもしれませんが、目が離せなかったので』

 応える彼女は青白い顔で微かに笑った。そう言ってそのまま背を向けた相手がこの場から去ることに追われるような焦燥を覚え、咄嗟に手を掴み取っていた。

『水餓』

 名を呼んだのはこの時が初めてだった。

 握った彼女の右手は一欠片の体温も感じなかった。

 掴まれた手を見て、もう一度微かに笑んだ彼女の顔。頬に赤みが差したように感じたのは思い込みにすぎないとしても、そんなことはどうでもよかった。

 自分が〝ここにいること〟を彼女は〝認識して〟くれている。

 それはこれまで自分が決して手に入れられなかったものだった。


 この世に生まれ落ちた瞬間からいないものとされてきた自らの存在。

 彼女が傍にいるだけでその望みは果たされる。彼女自身が持つ理由がどんなものであろうと構わなかった。寄り添ってくれる存在があるというその実感は、自分が生まれて初めて得たものだった。

 そして九年後の今、互いに変わらぬ姿であの時とは逆の位置にいる。

 水餓はあの夜から数日経った今でも動けずにいた。

 地下にいたモノに触れた〝右腕〟の暴走。同じことは過去にもあったが、いつも一時的なものでしかなかった。しかし今回〝右腕〟は未だ異様な存在感を示し、他の〝部位〟にまで影響を及ぼして彼女自身を弱体化させていた。


「螢……」

 弱々しく目を開けた彼女の視線は、傍らで自らを見る相手にある。

 長い睫毛の影が深く落ちている。

 痩せたように思うのは気のせいだと分かっているが、螢は何も言えなかった。

 かける言葉は多々ある。

 でも何も言わず、螢はその手を握り締めた。

 先代が七人分の死体を用いて〝造った〟彼女は十三年しか〝せい〟を保てない。

 既に片手で数えられるほどになった残りの年月。

 脳裏に常に巣くう危惧は、いくら消し去ろうとしても消えなかった。


「螢……食事はしましたか……ランドリーは出しましたか……?」

 声が酷く聞き取りにくいのは久しぶりに喋ったからか、もしかしたらそうでないのか。いつも以上に血の気が引いて見える相貌には、他人に向ける配慮の余地があるとは思えない。螢は表情に苦笑を貼りつけると、変わらぬ軽口を放った。

「おれは便所で自分の尻も拭けないような甲斐性なしじゃない」

「そうですか……知らなかった、覚えておきます……」

 浮かべられたあの日と同じ微笑に僅か安堵する。しかし唇から覗く、震える舌が深い不安を刻ませた。


「今晩は仕事だ。だがおれ一人でいい、心配はするな」

「心配です」

 間髪入れない返答に螢は再び苦笑する。

「ふらふらのお前にいられてもこっちが困るだけだ。それにいくら大丈夫だと言っても、与志人は阿呆みたいに心配するだろう。お前はここにいろ」

 沈黙は一瞬。

 緩く力を入れていただけの手が、強く掌を握った。

「分かりました。螢がそう望むのなら」

 告げた少女は目を閉じた。

 螢は傍らに膝をつき、その髪に指で触れた。

 瞼を閉じていても彼女に眠りが訪れることはない。それ以前に彼女はそれを必要ともしていない。

 今度は自分から強く握り返すと、螢は静かに手を離した。

 部屋を出て、歩き始めた薄寒い廊下は暗い電灯の下に続く。

 身を滞らせる静寂。

 この昏い道をいずれ一人で歩き続けなければならないそのことに深い絶望を感じる。

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