7.亀裂

 闇の中で与志人の携帯電話が鳴ったのは数分前。

 それまで周囲も、分岐の先も、物音一つせずに沈黙していた。

 ここで待ってろ。

 その言葉に従った判断が正しかったのか、自問をしながら沈黙する闇から目を離したのは数秒。戻した視線の先で見たのは驚愕の事実だった。


「え……?」

 そこにあったものは跡形もなく消え去っていた。

 分かれた道などどこにもなく、見えるのは周囲と同じコンクリートの壁。そこには何かの痕跡すら残っておらず、突如胸元で鳴り始めた携帯電話を焦る手で取り上げていた。

「ほ、螢っ! 今どこにいるんだ?」

『お前の遙か後方だ』

 焦った問いには存外冷静な声が返った。振り返ればその言葉どおりに、遠くで揺れるライトの灯りが見えた。

「いつの間にそこへ……?」

『知らない方がいいこともある。そんなことより与志人、こっちに来てくれ』

 そう伝えると電話は切れた。すぐに光を目指して駆け寄れば次第に漂う臭気が強くなってくる。それが腐敗臭だと気づけば、駆ける足は速度を増していた。


「螢!」

「松下氏は無事発見した。まだぼんやりしてるが歩行はできる状態だ。おれは当然平気だ。与志人、水餓を頼む」

 到着した場所には放心状態で座り込む中年男性がいる。その傍らには螢。そして地面には目を閉じて横たわる水餓の姿があった。

「一体何があった? 彼女は、水餓は大丈夫なのか?」

「とりあえず上に運んでくれ。心配するほど重症じゃない。外に出ればマシになる」

 与志人は水餓の様子を窺ってみるが、反応はない。

 向けた問いに少年は淡々と答えるがその声は平坦で、どうとでも取れた。投げやりにも苛立ったようにも、突き放したようにも聞こえるそれは後を引く引っかかりを残していた。


「だが与志人、その前に」

 螢は続けると、後方に目を向けた。

 今いる場所より数メートル先、漂う腐臭が一層増している。

「白骨化してるものもあるが、まだ死んで間もないものもある。あれらが誰かっていうのは説明する必要もないか」

 闇の中に点在するのは数多くの遺体の影だった。

「生きてたのは、彼……松下さんだけか?」

「多分な。でも死体が見つかるだけマシだ」

 与志人の視線は闇に彷徨う。

 松下氏は無事保護できたが、望まない形でしか見つからなかった他の行方不明者達。それを思えば声は自然に掠れた。応える少年の言葉は非情にも聞こえる。しかしその言葉が間違いでないのも確かだった。

「与志人」

 その呼びかけに与志人は顔を上げた。愕然とした感情がまだ頭を埋め尽くしていても、やるべきことは残されていた。少女に近づき、抱き上げようと背中と膝裏に手を差し入れる。そのまま立ち上がろうとしたが背後で声が響いた。


「それじゃ、無理だ」

「無理?」

「担いだ方がいい」

 振り返った場所には感情の見えない表情がある。先程の感情が再度蘇るが進言どおりに彼女を抱き起こし、上半身を肩に寄せかける。

 けれどすぐに告げられた言葉の意味を理解する。手に伝わる違和感を感じつつも、与志人は相手を抱きかかえて立ち上がった。

「大丈夫か?」

「あ、ああ……」

「そうか、それなら社長はおれが連れてくる。お前はとっとと先に行ってろ」

 螢はそう告げて背を向けた。

 与志人はその背を見送ると駅に向かって歩き始めたが、内心では混乱を覚えていた。


 抱き上げた水餓の身体は酷く重かった。

 華奢な体つきからは想像もつかないほどその身体は重く、気を失っているのを差し引いてもあり得ない重量を孕んでいた。今自分の肩にあるのは体格のいい大人の男と同等の重さ。その事実には深い違和感を拭えない。

 少女に関して疑問を感じない訳ではなかった。彼女の素性を自分は何一つ知らない。それを知ろうとすることすら拒み続けていた気もする。

 水餓のことは構うな。彼にそう言われてその言葉に従ってきたが、それは自分の中にある疑問に触れたくなかったからかもしれない。

 だが揺れる髪に隠れた少女の横顔。

 今は彼女を思い遣ることだけが必要に違いなかった。


「おい」

 目を向けると、松下社長を伴った螢が追いついていた。

 彼は手にしたライトで前方を照らし、先程と変わらぬ平坦な声を発した。

「駅に着いたら、お前は先にこの人を保護しろ。それまでおれと水餓は駅で待ってる。心配はするな」

「いや、着いたらすぐに応援を呼ぶ。俺は水餓とお前についてるよ」

 奥で発見した遺体もある。そうするのが得策であるはずだった。だが相手の声が再度冷たく響いていた。

「は? おれ達に?」

「お前は大丈夫でも、水餓が心配だ」

「おれがついてるだけじゃ、不安ってことか」

「そんなことは言ってない。どうしたんだ、お前」

「別に、おれはいつもと変わりない。逆にお前はおれをどんな人間だと思ってたんだ? 身の丈以上に買い被られて喜ぶのは阿呆とガキだけだ。おれはどっちでもない」


 拒絶の色を増した声が闇で響いた。

 皮肉の笑みすら浮かべる相手に返す言葉は見つからなかった。

 これまでも適当な言葉で煙に巻かれたことはある。多少当たりの強い言葉を放たれたこともある。

 けれど鋭利にも響く今夜の言葉には言い難い戸惑いしか感じない。しかし今ここで何かを言わなければ、この数ヶ月で培ったものを手放しで失ってしまいそうだった。

「螢、俺はただお前と水餓が心配なだけだ。年上の俺がそうやって守ろうとするのは当然だろ? 俺はお前のことも尊重するが、俺が正論だと判断したことも通す。もしこれからも今晩のように水餓やお前が危険な目に遭うのなら……」


「どうだって言うんだ?」

 言葉を遮る声が闇から鋭く飛んだ。その姿に目を遣るがそれは向けられたライトの光に遮られ、何も見ることはできなかった。

「何も知りもしないくせに余計なことは言うな」

 反論も問うた本人によって許されなかった。

 少年は隣の相手に強引にライトを握らせると、振り返りもせずに先を進んでいく。

 その周囲は瞬く間に闇に閉ざされる。

 まだ続く闇を見据えながら、与志人は出口に向かって歩き続けていた。


 

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