6.深すぎる闇
そこにある闇は闇ではない。
次第に閉ざされていくその場所で、螢はそこに棲みつくものの存在を感じていた。
ここを訪れた人達を次々に取り込み、強大な存在になりつつあるモノ。
レールから外れ、どこからも遮断されたこの場所と同化するモノ。
濃密な気配で埋め尽くされたその暗い場所に立ち、螢は表情を歪めて見せた。
「ひでぇなぁ。死体はバラバラだ。お前、これを片づける人の気持ちを考えたかよ。まぁ考えられるような人間だったら今ここでこんなことしてねぇか、クソ女」
一陣の風が吹いて、螢の髪を乱す。
正面切って現れることをしない相手に螢は嘲笑を零した。
「飛び込んだらそれで終わりと思ったか? でもそこから始まるのは永遠に続く闇だけだ。見通しの甘さは生きてる時からの持ちもんだろ。自分からドツボにはまって、自分を憐れむだけ憐れんで、自分をその場所から救い出す努力もしなかったくせに、他人に向けた恨みの量だけはご立派だな」
ゆらりと闇で何かが動く。
砂利を蹴散らす瞬発力で現れたその何かが、螢に突進していた。
極限まで開かれた口と黒目のない瞳。
喉の奥から発せられるその呻きは、人のものと思うには遠すぎる。
だが人と思えなくてもそれは確実に人の形をしていた。
「水餓、その人は悪くない。優しくな」
螢の傍らに控えていた水餓が鋭く動く。
闇から現れた何者かの呻きは、続くことなく止んだ。
水餓の高い蹴りを食らって地面に崩れ落ちたのは、作業服姿の中年の男だった。
「好き好んでここに来た奴には同情しないが、この人は仕事で来ただけだ。他の連中のように遊び半分で来た訳でもなく、故にお前に因縁をつけられる筋合いもない。正当な対応が好きなんだ。おれは常識ある人間だからな」
言いながら螢が鼻で嗤えば、苛立ちを顕した強風が再び視界を覆う。
それが過ぎ去れば、闇に血濡れの女が立っていた。
「やっと現れる気になったか」
その顔の大半は原形を留めていず、赤く染まる衣服から覗く切れ切れの四肢が、動きを奇妙に見せる。
身体からびたびたと垂れる血が絶えず地面に滴っていた。
「水餓、〝ゲート〟を使う」
「はい」
ああああああああああああああああああああああああ……。
血に濡れた女の口が開かれ、闇を震わす声を上げる。
周囲の闇の濃度が増していく。
その闇に現れ始めたのはいくつもの半透明の顔。
瞼を硬く閉じるもの、だくだくと涙を流すもの、血走った目を剥くもの。
決して望まなかった末路。それはこの場所で姿を消した人達の変わり果てた姿、この場所に永遠に囚われ、深い未練の塊となり果てた人達の集合体だった。
迫り来るそれらがどうにかして螢に触れようとその顔面を捩らせる。しかし手足のない身でそれは叶うはずもなく、溢れ出す顔の群れはひしめき合いながら呻きを発していた。
「螢」
タイを解いた水餓がゆっくりシャツを開く。
そこにあるのは解剖後の死体に見られるY字の縫い跡。
「罪深きわたしに贖罪を」
螢の声が募る度に糸がほつれ、傷跡が捲り上がっていく。
「彷徨う魂に」
完全に開き切ったその場所には肉も臓腑もなかった。
「一縷の光を望む」
あるのは底の見えない闇の空洞。
うぅああぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁ……。
螢の言葉が終わりを迎えると、顔達がその空洞に呑まれていく。
水餓の身体に開かれる〝ゲート〟を前にして、死者は抗うことはできない。
顔達は最後の呻きを発し、次々と闇にその姿を消す。
周囲に漂っていた濃密な気配は一つ息をする間に微かな感触だけを残して消え去っていた。
オ……マェ……ユルサナィ……。
後には血濡れの女が残されていた。
ここにやって来た人達を自らの側に引き込み、自らと同じようにここに縛りつけた女。
既にそれは女ではなく、その形をした恨みの塊と言ってよかった。全てを呪った執念は死後もこの場所で増幅を続けていた。
「お前も一緒に行っとけよ、きっと楽しい場所だ。おれは知らないけど」
螢に襲いかかろうと踏み込んだ脚が膝から崩れ折れる。とうに限界に達していた負の肉体は至る箇所で溶解が始まり、全ての動きを阻む。
最後の足掻きは、足掻きと言えるものでもなかった。不自然に動いた爛れた唇が闇を震わせ、途切れ途切れの音を発した。
オボェ……テロヨ……。
「それはどうかな。おれが死ぬのは不本意ながらまだずっと先だ」
その言葉を残して女の姿は闇に呑まれ消えた。
水餓の胸の糸が器用に動きながら元の姿を取り戻していく。シャツのボタンをかけ終えた彼女は顔を上げるが、その表情には見えるはずもない疲労の影が掠めていた。
「水餓、大丈夫か?」
「え、ええ、大丈夫で……」
「水餓?」
その言葉は消え入りながら途絶えた。
見遣れば、彼女の右手五指全てが忙しく動いている。その動きが意に反したものであるのは明白だった。俯く顔には御し切れない苦悶の表情が浮かび上がっていた。
「クソ、自殺女の気に反応したか……」
螢は苦い表情で呟いた。
ヒステリックで自滅的、水餓の〝右腕〟は自らを殺した相手が死んだ今でも、その相手を恨み続けている。死しても残るその自我は時折水餓を苦しめている。今夜この場で同調する波長を感じた〝彼女〟は過剰なほどの気を発していた。
「すみません……螢、どうやら……」
「水餓っ!」
〝右腕〟が強烈な意思で水餓の意識を奪っていた。
寄る辺を失った身体は固い地面に向かう。
螢の足はその事態を避けようと動いたはずだった。急いて差し出した両手は彼女を支えようと咄嗟に動いたもののはずだった。
しかしそれは為されなかった。
腕には自らが許容できる以上の負荷がかかる。結局何も支えられず、螢は彼女と共に地面に倒れ込んでいた。
「クソっ、何やってんだ……」
暗い地面に横たわる彼女は全く動かない。
螢は腹這いのまま手を伸ばし、その冷たい頬に触れようとするが動きを止めた。
この無様な姿。
少女を抱き留めることもできず、元より自分は彼女を救えもしない。
この非力な身体。
だがもし……自分が〝彼〟のような体躯を持っていたなら、その時はきっと彼女を抱き留めることができただろう。
闇の中、この姿を嘲り嗤う声がどこからか聞こえる。どれだけ願おうが現実にあるのは病に蝕まれたその非力な身体だけだと嗤う。幻聴だと分かっていても、それは耳の奥にこびりついて消えることもなかった。
自分が密やかな憧れを抱き続ける〝彼〟は、自らが求めるものを全て持っている。
屈強な身体、好きなように生きる権利、振り返ることのできる青春。
けれども彼と同等のものをこの手に願うなど、愚かな行為にすぎない。得られなかった九年分の成長を取り返したいと願うなど、ただの子供じみた愚かな行為にすぎなかった。
「このおれに一体、何ができるって……?」
螢は闇の中、立ち上がる。
しかし心の奥で膨張を続ける込み上げるものに咳き込めば、掌は粘った血で濡れた。
あは、あはははははは……。
暗い壁に跳ね返る自虐の笑い声が背に刺さるように響く。
連動して痙攣した胃袋は、消化未満のサンドイッチを逆流させた。
「クソ、もったいねぇ……」
前傾姿勢で撒き散らした吐瀉物が靴を汚している。
苦い顔を上げずに彼は闇に佇む。
カラになった胃には嫉妬だけが残されていた。
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