5.蜜沼六十五区元砂倉駅

 広がる闇は、周囲の景色をも食い潰そうとしているようにも見える。

 蜜沼六十五区、元砂倉駅を囲む町は動きのない静寂を漂わせていた。


「何も無いな」

「昔はあったんだよ。でも二十年ぐらい前から寂れていった。十年前の廃駅は駄目押しだな」

 周囲にはいくつもの商店や飲食店が建ち並ぶが、どれも店を閉めて久しいようだ。隣接する家屋やアパートも長い間人が動いた気配は窺えない。

 今はほぼ見られなくなった公衆電話ボックスが、地下入り口と並んで佇んでいる。外れた受話器がひび割れたガラスから吹き込む風にゆらゆらと揺れていた。

 入り口を封鎖するバリケードはかなり前から形骸化していたようだった。破壊され、踏み荒らされた隙間から見える地下階段の下部には深い闇がある。今も増殖し続けているように見えるそれは辺り一面に黒い影の枝を伸ばしていた。

「足元、気をつけろよ」

 与志人は階段を下りながら背後の二人に声をかけた。それに応えるように水餓が手にしたライトの光が上下する。階段に吹き溜まる落ち葉は湿り気を帯び、気を抜けばいつでもこちらの足元を掬う。湿気を増していく階下に与志人は二重の意味を持って、慎重に下りていった。


「明かりは点いてるな」

 ホームの照明は二日前のままになっているのか点いていた。しかし闇に溶け出しそうな乳白色の光は今にも消えそうになっている。周囲の壁には落書き、地面にはゴミや煙草の吸い殻、人の動きが途絶えた場所特有の荒んだ気配が漂っていた。立った場所で全てを見渡せるささやかなホームに人の姿はなかった。僅か期待を抱いていたが目に入るのは、破壊されたベンチと落書きだらけの壁だけだった。

 ホームの端に立ち、右を見ると封鎖を意味する鉄の壁が先を阻んでいる。

 左を見遣ると、湾曲するコンクリートの壁が燐是へ続くその闇を見ることを拒んでいた。

「歩くのはあんまり好きじゃないけど、行くしかないんだな」

 螢が線路上に降り、水餓が後に続く。与志人は最後に降り立った。

 二人は無言で闇の線路上を歩き始めている。

 二度と使われることのない錆びついたレールはただ燐是へと続いている。

 手にしたライトの光はここでは異物でしかなかった。

 侵入者に驚いた蝙蝠達が集団で飛び回りながら、天井近くを移動していく。

 立てた靴音はずっと奥まで響いて消えていく。

 光と永遠に遮断された人工の洞窟。

 足音と気配だけが、そこにいる者の存在を知らせている。

 見ようとする意思がなければ目に映るのは、すぐに闇だけとなり果てる。続く闇の静寂は高濃度のタールのように行く先を澱ませていた。


「大倉さん、あれを見てください」

 数十分も進んだ頃、水餓が前方を指していた。

 ライトが照らすレールとレールの間、何かが落ちている。近寄って確かめたそれはくしゃくしゃに丸められた薄緑色の作業服だった。

「っ……これは……」

 だがそれを手に取った与志人は息を呑んだ。

 広げた作業服からは、長い髪がばさばさと零れ落ちる。爛れた頭皮と一緒に引き剥がされたようなその陰惨さには絶句するしかない。それでも髪を全て払い除けると、与志人は名札に『松下』と記されているのを確認した。

 この場所は彼の部下が何度も捜索した場所のはずだ。

 そのような場所で誰のものとも思えない女の髪と共に発見されたこの服。どう取っても善報の前触れとは思えなかった。考えたくはないがよくない結末が脳裏を過ぎった。

「与志人、それ貸してみろ」

「え?」

 隣から伸ばされた手が作業服を奪った。じきに相手からは声が届いた。

「与志人、これからは何にも見えない。だから持ち主は多分まだ生きてる。どこにいるかまでは分からないがな」

 端的に伝えた相手は作業服を与志人の手に戻すと闇の中を進んでいった。

 まだ生きているという言葉。その言葉に今は望みを託すしかなかった。続く闇を見据えると与志人は再び歩き始めた。


「なぁ、螢」

「何だ」

「いなくなった人達は一体どこに行ったんだろう?」

 闇を進みながら与志人は前方に問いかけた。

 この場所で行方知れずになった人々。実体を持った人間が何人もこの場所で姿を消すその事態は、どこまでも道理を外れた出来事でしかなかった。向けた問いには前方の影が微かに振り返った。

「皆どこにも行っていない。ここから離れられないし、出られなくなってるだけだ。不用意にここにいる奴の縄張りに入り込んだんだ。憐れだが仕方がない」

 返答の声は淡々と続いた。

 ここで姿を消した人達、彼らがもし何らかの犯罪に巻き込まれ、どこかで自らの発見や捜索を待っているというならまだ救いがあると与志人は思った。

 だが螢がここにいると言う何か。彼らがその何かに囚われ、どこかとも表現できない場所から逃れられなくなっているとしたら、その救いは果たしてあるのだろうか。

 仕方がないという言葉で片づけるのは無情のようにも思う。不用意と言われてしまえばそれまでだが、これは誰もが陥る可能性のあるアクシデントでもあるはずだった。せめてと思うのは彼らの痕跡を僅かでも発見できるよう尽力することだった。


「あれは何だ?」

 歩き始めて一時間弱は経っていた。

 かなり深層部まで進んだ頃、螢が声を上げていた。

 一本道であるはずの廃路線。

 前方の闇は二つに分かれていた。

 一方にはレールもなく、砂利の敷かれた暗い道が続いている。

 近づいてもその黒い洞窟の先は見えてこない。

 これまで進んできた道以上に深く、遠い闇がここから始まっていた。

「与志人、これは一体何だ?」

「いや……こんな分かれ道があるとは報告になかったが……」

「随分、暗いな……」

 照らした光はなぜか吸い込まれるように消えていく。近づこうとする度その実像からも遠離っているように感じる。


 突如現れた新たな道は予測不可能に充ちていた。この先にどんな事態が待ち受けているのか何も分からない。でもまだ生存の可能性が残る不明者達。彼らの行方がもしこの先にあるとしたら、背を向ける選択肢はなかった。

 与志人は前に一歩踏み出した。

 だが闇に向かうその足を止めたのは背後から響いた声だった。

「与志人、お前はここで待ってろ。おれが呼んだら入ってもいい。それまでは一歩も入るな」

 振り返った場所には硬い表情がある。

 何も言わずに与志人は相手のその表情を見据えた。

 これまでも彼らが先行する場面はあった。しかし今回は譲れなかった。この先には恐らく予測不可能なものがある。まず自分が内部を確認し、それから二人を呼んでも遅くはない。みすみす彼らを危険に向かわせるやり方は初めから頭になかった。


「ここで待ってろって、螢、それ本気か?」

「本気だ。こんな時につまらない冗談を言うか?」

 けれど相手には引き下がる気配は欠片もない。

 与志人はその場で溜息をついた。こうなればこちらがどれだけ抵抗しようと、決定が覆らないのは分かっていた。

 視線の先には黒い服を着た二人がいる。

 不安は消えるはずもなかったが、言うべき言葉は伝えなければならなかった。

「分かったよ、お前の指示に従う。だがもし俺が必要だと感じたら呼ばれなくても後を追う。それは構わないな?」

 その言葉に相手は何も答えなかった。代わりに口元に笑みを見せる。そして隣の少女を伴うと、闇の中に消えていった。

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