4.微かな違和

「腹減った」

 部屋に着くと、五○四号室の主は腹を空かして待っていた。

 水餓が差し出したデリの袋を受け取り、「お茶」と彼女にぶっきらぼうに告げる。すぐに用意に取りかかるその背を見送り、与志人は向かいのソファに腰を下ろした。

 そこにはなぜか不機嫌そうな表情がある。不穏が微か過ぎったが、直後声が届いた。


「何だよ、二人して一緒に戻ってきて、もしかしてデートでもしてたか」

「え? いいや、この近くで偶然会っただけだよ」

「ふーん、それ本当か?」

「本当だよ、大体そんなどうでもいい嘘をつく必要なんかあるか? それに水餓と話したのも二週間ぶりだよ。お前ともな」

「ふん、そんな馬鹿丁寧にいちいち説明されなくても分かってる。毎度毎度馬鹿みたいに馬鹿正直に答えるな」

 どうやらそう見えるだけでなく螢は本当に機嫌が悪いようだった。その理由は分かりかねるが、ここは軽く受け流した方がよさそうだった。


「何だかご機嫌斜めみたいだな」

「別に。でもその心遣いに感謝するよ。おれの精神状態を逐一気にしてくれて。だからこれからももっと観察してみてくれよ、きっとすげぇ楽しいからさ。おれが腹減ってるんだなとか、おれが喉渇いてるんだなとか、おれが唾吐きたいんだなとか、おれが小便したいんだなとか、おれがゲロ吐きたいんだなとか、おれがあちこち管巻きながら這いずり回りたいんだなとか、おれが数週間溜まってて朝も昼も夜もなく猿みたいに自……」

「いや、もういい……やめてくれ……」


 与志人は力なく相手の言葉を止めた。ここでどうにか終わらせなければ今日この後も延々後を引きそうだった。何かのとばっちりを食わされたような理不尽な疲労も伴うが、相手が言い放った言葉の一つに少し気を取られてもいた。

 おれの精神状態を逐一気にしてくれて。

 その言葉は今日の児玉との一連のやり取りを思い出させていた。

 螢がそれを知るはずはないが、暗に指摘された気分になる。螢自身も懸念を持たれていることを感じているのだろうか。

 視線を向けると抜け目ない黒い瞳は何も読み取らせない色でこちらを見ている。未だ硬く響く声が続いた。


「今日はどんな用だ」

「用はまぁあるが、今は食事中だろ? 後でいい」

「話ぐらい食いながらでも聞ける」

「そういうのは無粋だったんじゃないのか?」

「それは一体何のことを言ってるんだ、大倉刑事。物事は常に変化している。猫の瞳みたいに一秒ごとにな。臨機応変から目を逸らして、おれに変に気を遣ってばっかだと神経すり減らしてとっとと早死にするぞ、与志人」

 少年はその場でにやにやと笑っている。そこには先程までの暗い影はもうない。

 急降下に急旋回。まるで相手に感情をぶん投げられながら振り回されている気分にも陥るが、以前からそれは変わらないとも言える。見逃してはいけないものまで手放してしまった気もするが、それを掴み取るには自分はまだ修行が足りないのかもしれなかった。

「分かったよ、それじゃ早速本題に入る」

 与志人は用意していた書類を手元に取り出した。思いは僅か留まるが、今はこの新たな案件に意識を集中させるのが先だった。


「案件番号二二八。現場は燐是にも程近い蜜沼みつぬま六十五区、国営地下鉄元砂倉さくら駅。この駅は十年前廃駅になり、それ以後放置状態だったが先日ようやく完全封鎖が決定し、二日前業者が下見に入った。その際請負業者である松下工務店の社長である松下茂男しげお氏、五十二才が行方不明になった。当時一緒にいた部下二人の話によると、目を離した一瞬の間に姿が見えなくなったという。構内は一本道、部下二人は幾度も捜索したが、結局社長発見には至らなかった。砂倉駅に行くと神隠しに遭う。ここ数年こんな噂話が広まっていた。廃駅になってじきに砂倉駅は所謂心霊スポットと呼ばれ、燐是と目と鼻の先にあることも〝人気〟の一因になって、若者を中心に多くの人が肝試しと称してこの場所を訪れていた。しかし神隠しの噂が広まった近年は物見遊山の数は徐々に減っていたらしい。だがその噂自体ありがちなよくある噂話ではなく、事実今件以前にも同じく十数人、行方が分からなくなっていると確認が取れた。今回の封鎖が今更決定したのも、この失踪者頻発が一つの要因でないかと思われる」

「それで?」

「今回の目的は行方不明になっている松下氏の捜索。これが一番。後は〝今後の作業が安全に行えるようにすること〟だ」


 話し終えると、螢も食事を終えたようだった。

 ソファの上で大きく伸びをして、ついでのように言葉を零した。

「大漁かもな」

「大漁? それどういう意味だ?」

 与志人は問い返すが、螢は何も答えずに窓の外に目を移した。

 そこには陽も暮れた街の風景がある。

 そのせいか光度の低いその場所で見る相貌は翳りを濃くして映る。

 床上で揺れる影が頼りなくも見え、理由の分からない心許なさがどこからともなく忍び寄る。

 その微かな不穏を断ち切るように相手は立ち上がった。

「行くか与志人、夜の方が雰囲気も出るだろ」

 見上げた視線の先には鼻唄交じりに上着の袖を通す少年の姿がある。

「なんちゃらスポットだ。いる奴も喜ぶだろうよ、カモが来たって。まぁおれはカモじゃないけど」

 手にした紙袋を丸めてごみ箱に投げ入れ、彼はいつものように笑っていた。

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