3.二人の少女
ホテルはいつものように曇天の下でくすんだ色を見せていた。
陽が落ちようとする夕刻。
車を降り、その暗い空を見上げていた与志人は背後の足音に気づいた。
振り返れば、通りを駆けてくる人影がある。
その人影は酷く慌てふためき、一目で尋常な状態でないと分かる。脇目も振らずに走り抜けようとしたその小さな身体を捉え、与志人は顔を覗き込んだ。
「一体どうしたんだ?」
「あ……あ……あ……」
「確か、望だったよな」
与志人は相手の身の丈の高さに屈むと、なるべく穏やかに話しかけた。
引き留めた人影はあの老婆の孫である望という少女だった。彼女は息を切らし、顔は青ざめ、喘ぐ口元は震えている。どうやら失禁もしているようだった。そこには幼い子供が全身で顕す怯えがある。彼女の身に何らかの事態が起きたのは明らかだった。
「そうは見えないかもしれないけど、一応俺はおまわりさんだ。もし何かあったのなら話してみてくれないか? 悪い奴に追いかけられたんだったら必ず俺が捕まえるから」
こちらに見覚えがあると気づいたのか、少女は少しずつ落ち着きを取り戻しているようだった。ゆっくり言い伝えたその言葉に彼女は否定の意味で必死に首を横に振る。
少女に見たところ怪我はなく、背後に追跡者の姿も気配もないのを見取れば、誰かに追われていた訳ではなさそうだった。しかしこの様子を目の当たりにしてこのまま放置して立ち去ることはできなかった。
「なぁ望、もしかして誰かに何かされたのか……?」
問うのは酷かと考えたが、与志人は訊ねた。相手はまだ唇を震わせていたが何かを伝えようと、か細い声が零れ出た。
「……ち、違う……私じゃなくて、あ、あの、お姉ちゃんが……」
「お姉ちゃん? 望のお姉ちゃんか?」
「違う……ここにいる……いつも黒い服のお姉ちゃんが……」
「黒い服のお姉ちゃんって、もしかして水餓?」
「ひっ、こっ、怖いっ……」
「怖い……?」
与志人が水餓の名を出した途端、向かい合う身体が再び硬直する。少女は瞳に強い怯えを蘇らせると、何かから逃れるようにホテルに駆け込んでしまった。
「一体……何があったっていうんだ?」
与志人は閉じられた扉に目を移しながら呟いた。
望は何かに怯えていた。それは紛れもない事実だった。だがその怯えの原因を言い伝える当人がいなくなってしまった今では、何が起きたかは推測するしかない。
怯えていた望。何者かに追われた訳でも襲われた訳でもなかったのだとしたら、彼女は誰かが何かをされる場面を見た……。
「まさか、嘘だろ……」
与志人は呟きを落とすとその場から駆け出していた。
今した推測が正しいならその誰かとは、水餓としか思えなかった。
あの少女が駆けてきた方向しか分からず、それでも足は水餓の姿を捜してどこかへ向かおうとしていた。
しかし次の角を過ぎ、ホテルから数十メートルも来た場所で与志人の足は急停止していた。
「みっ、水餓?」
「はい、大倉さん、どうかしました?」
反対側の歩道には水餓の姿がある。
彼女のその姿はいつもと変わりなく、怪我をした様子も何かが起きた様子もとりあえず見えなかった。
「ええっと、水餓……ちょっと変なことを訊くが、無事か?」
「えっ? ええ、無事ですが」
「特に何事もなかった?」
「はい、特に何事もありませんよ」
歩み寄りながら問えば、そのような返事が戻る。表情には少々の戸惑いが見えるが、それはこちらが妙な質問をしたからに他ならない。
望を怯えさせたものは何だったのか。確かに何かが起きたのは間違いない。
間違いないがそれと水餓を結びつけたのは自分の推測でしかなく、望自身がそう告げた訳でもなかった。それを思い返せば、次第に勝手に焦って空回りした自分の姿が徐々に透けてくる。
「あの、大倉さん、大丈夫ですか……?」
おまけに彼女に逆に心配される。
灯し始めた街灯の下、相手の顔には困惑しか見えない。彼女のその手には相馬デリの袋。恐らく螢用の買い出しに出た帰りのようだった。これ以上この話を続けても自らの不思慮さが色濃くなるだけで、与志人は苦笑を零すと歩き始めた水餓の隣に並んだ。
「新しいお仕事ですか、大倉さん」
「ああ」
届いた問いに相槌を返すと、水餓は再び黙していた。
周囲には夕闇の気配が漂い始めていた。ホテルに向かいながら与志人はふと前にもこうして彼女と並んで歩いた気がしていた。でも螢といつも一緒にいる彼女と二人きりになる機会はこれまでになく、多分初めてのはずだった。
見遣った水餓の背丈は自分の肩に届くほどだった。そう思えば遠くない過去、同じようにそこにいた相手を思い出していた。
「
思わず呟いた言葉に隣の相手が反応を見せる。疑問も垣間見えるその表情に向けて与志人はなるべく明るい声を作って答えた。
「あー、今の結有果っていうのは俺の妹。背の高さも歳も水餓と同じくらいなんだ。見た目は俺と同じく親父似で線が太くて、水餓とは全然似てないけどな」
「そうですか、妹さんがいたんですね。仲、いいんですか?」
「ああ、まぁ、仲、よかったというか……」
「喧嘩でも?」
「いや……去年、一年ほど前に死んだんだ。病気が見つかってからあっという間だった」
「そうだったんですか……すみません、余計なことを」
「いや、いいんだ、言い出したのは俺の方だよ。謝らなくてもいいさ」
そのように声をかけても、いつもより沈んで見える表情に変化はなかった。
再び沈黙の歩道が続く。
しかしその沈黙を終わらせたのは隣から届いた声だった。
「大倉さん……もしよければですが、わたしに妹さんの話を聞かせてもらえますか?」
その言葉は意外なものだったが、無論断る理由などどこにもなかった。与志人は隣に笑いかけると、歩く速度を落として言葉を返した。
「ああ、もちろんいいよ。でも何から話したらいいか……そうだな、結有果は俺より五つ年下で、とても明るい性格だったな。だけどちょっと元気がよすぎて言動が直球すぎた。そういうところでは度々損してたよ。中学、高校とずっと陸上競技をやってて、彼氏も作らずに走ってばっかいたな。俺がこっちに来て、おまけに入隊してからはあまり会えなかったけど、他愛ない連絡はしょっちゅう寄越してたし、盆と正月に帰ればいつも喜んでたよ。まぁ、こづかいも毎回巻き上げられたけどな」
言葉を切ればくすりと笑い声が聞こえ、与志人は隣を見遣った。
そこには少女の笑みがあった。いつもより可憐に映ったそれは与志人がこれまで見たことのない表情だった。
「分かる気がします」
「え?」
「大倉さんが育った環境が」
「……そうか?」
「ええ」
それ以降水餓は黙ってしまったが、穏やかな雰囲気は残したままだった。与志人は隣から漂うその気配に触れながら、忘れかけていたものに気づかされた気がしていた。
妹を亡くしたことに対する心の整理はまだついていない。けれど彼女との思い出は悲しみに彩られたものばかりではなかったはずだ。そんな簡単なことだが、大きな感情に攫われて忘れかけていた。水餓との会話はそのことを思い出すきっかけになり得たかもしれなかった。
「水餓」
「はい、何でしょう」
「いや、やっぱり何でもない。悪い」
与志人は言いかけた言葉を取り消すと曖昧な笑みを浮かべた。そんな相手を彼女は気にするでもなく、また前を向いて歩き始めていた。
彼女に呼びかけたのは家族のことを訊いてみようとしたからだった。だが寸前で過ぎったのはその答えより、返答にただ困る彼女の顔。それを思えば言葉の先を続けることもできず、今ではそれを訊ねようとしたことも、途中で質問を終わらせたそのことも、自らへの後ろめたさにしか繋がっていなかった。
くすんだ色のホテルが見えてきた。
与志人は霞んでも見えるその色に向かって無言で足を進めていた。
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