2.水餓の災難
燐是に住む者は他人に関わろうとせず、関わらせようとしない。
少しでも危惧を感じるものには最初から近づこうとも思わない。
それが燐是で生き存えるために必要とされる最低限の心得。
その単純な法則にさえ則らない人がいるとすればそれは元より命を捨てている者か、そのルールをまだ身に染み着けていない新参者だった。
「おい金だ、お前、金を出せ」
届いた声に水餓はゆっくり顔を上げた。
突然ナイフを突きつけられ押し込まれた路地の奥、欧風調の元アパートメントが周囲を取り囲んだ元薔薇園の中庭。かつては花が咲き誇っていたであろうこの場所も現在は上階から投げ落とされたゴミがうずたかく積まれ、過去の面影はどこにもないただの廃棄場と化していた。
目の前の男は今もナイフを突きつけている。彼の連れであるもう一人の男は背後に立ち、逃げられないよう退路を断っている。
こんな状況に陥った場合、この街での対応は一つしかなかった。
水餓は迷うことなく、持っていた三枚の紙幣を男に差し出した。
「はぁっ? たったこれっぽっちかよ? 他にはないのかよ!」
ナイフを持つ手はそのままに見知らぬ男は悪態を吐く。
だがそう言われても水餓自身、普段から金を持ち歩くことをしない上に今も螢の食事を買いに出ただけだった。それ以上要求されてもどうしようもなく、首を縦に振るしかなかった。
「あー、まぁ今回はしょうがないんじゃない? 相手は女の子だし」
「それにしても、クソっ……これじゃ一回分のクスリも買えねぇ」
「じゃあさ、次はもっと金を持ってそうな奴を狙ってみようよ。それを何度か繰り返せばきっと何とかなるよ」
凶悪なのか呑気なのか分からないやり取りをする男達から目を離し、水餓は辺りを見回した。周囲には当然のように誰の姿もない。ここに見えるのは廃棄物の山と沈黙し続ける古い建物だけだ。しかしもし誰かがいても、助けにも希望にもならない。それが現在の燐是という街でもある。
水餓を挟んで会話をする二人の男は、通りすがりの人間から手当たり次第に金を巻き上げているようだった。
彼らは若く、身なりもきれいだった。無差別に強盗を働くその傍若無人さからも明らかに新参者であるのが窺える。
燐是に住む者は他人に関わろうとしない。危惧を感じるものには最初から近づこうとも思わない。そんな住人達が殊更自分達と関わりを持とうとせず、極力避けてすらいることを水餓は知っていた。でもこの二人は自らのことだけで精一杯で、間近の避けるべきものにまで注意を払えていない。ここではまだ赤ん坊のような彼らが、この地での危機回避能力を得ていないことに水餓は不安を感じていた。
「おい、お前」
ナイフの男が声を上げた。にやにやと笑うその表情に浮かび上がるものを垣間見れば、不安は危惧に変わろうとしていた。
「お前さ、金持ってないなら今すぐその服脱げよ。無い金の代わりに俺らがここでたっぷり可愛がってやるからさ」
よくない欲望がその目に溢れていた。
水餓は遅い後悔を感じる。こうなるなら金など渡さず、別の行動を取るべきだったと今更のように思う。二人を制圧し、悠々とこの場を去るのは容易い。水餓自身、螢に命令された以外の対象に攻撃を加えることはできないが、自らを守るために動くのは無論可能だった。しかし未だ相手を深く傷つけず、それを為せる自信が自分の中で得られていなかった。今できるのは自らのつたない言葉で相手を説得することだけだった。
「それはやめた方がいいと思います」
水餓は男を見据え、そう告げた。
「はぁ? 何訳分かんねぇこと言ってんだ? いいからさっさと脱げよ!」
「もう一度言います。やめた方がいいです」
「お前、この状況が分かってねぇのか? 痛い目を見たくないなら、寝言言ってないで早くしろ!」
男は声を荒らげて鼻先にナイフを突き出す。背後の男はじりじりと間合いを詰め、息がかかるほどに迫ろうとしていた。
自らの言葉が伝わらなかったことに水餓は無力感を感じる。でもその期待は最初から道端の石ころのように些細なものでしかなかった。心に残るのは無力な自分への絶望感だが、それを感じ続けたところで目の前の現実が消える訳でもない。
タイに手をかけると、ひゅう、と男が口笛を吹いた。
彼らが望むものはこの服の下には決してない。腐臭漂う現実を思いながら水餓は一度目を閉じるが、自分がこの場でできるのは被害が最小限で済むのを願うことだけだった。
「あのさぁ、あんたこんな所にいるってことはそういう職業なんだよね?」
「ああ、そんなの当然だよな。つまり誰にこういうことをされても全然文句は言えないってことだろ。ちょっと愛想はないけど抱き心地よさそうなカラダしてるし、見た目はかなりの上物だし、この街じゃきっといい稼ぎがあるんだろうから、たまには俺らみたいのに無料サービスしたっていーんじゃねーの? なぁ?」
男達の嘲笑が届く。
水餓自身、彼らにいくら嗤われようがどう言われようが何も思わなかった。けれどその一方で頼むからもういらぬ挑発をしないでくれと強く心で思う。
常に沈黙を守り続ける他の〝部位〟はいつものように黙している。
しかし男達の嘲笑に過敏に反応した〝右腕〟は静かな怒りを漂わせ、疼き始めていた。
「おい、早くしろよ」
決断が遅くなるほど、危惧が大きくなるのは分かっていた。
水餓は意を決し、タイを解いた。
そのまま胸元に手をやれば、男達がごくりと唾を呑む。
ベストの後に靴も脱ぎ、シャツのボタンを外す。
数秒後には全く異なる感情が彼らを襲うのは分かっていたが、水餓は最後の躊躇いを振り払うと残りの衣服を一気に取り去った。
「うっ……」
目の前にあった嘲笑や欲望は一瞬で消滅していた。
ぬるい風が吹いて水餓の髪を揺らしたが、剥き出しの肌は何も感じ取ることはなかった。
薄荷の匂いに混じる腐臭が微かに増す。
やめた方がいい。
男達の顔にはようやくその意味を理解した表情が顕れていた。
口は開くものの、続く絶句。
そこにあるものを見てしまった気の毒な男達に水餓は憐れみの目を向けた。
「な……何だ……それ……」
「て、手も足も胴も……繋ぎ……合わせてんのか? も、もしかして別の奴のを……」
男の一人は言葉の後に、耐え切れずその場で嘔吐した。
もう一人はふらつく足で後退ると、掠れた一言を吐き出した。
「ば、化け物……」
呟いた男は腰を抜かした相方の服を掴むとこの場から逃れようとするが、目の前にあるものから視線を逸らすことができない。
目を離したくても離せない。ある極限に達した人間は時に意に反した行動を取ってしまうものだった。
「うわぁぁああああ」
「こ、こんなもの、いるかよ!」
へたり込んでいた男が急に立ち上がって絶叫しながら走り去っていく。
相方の叫びにようやく我に返った男は、汚物を投げ捨てるように奪った金をばら撒いていなくなった。
彼らが去った後には静寂だけが残り、その中で水餓は男達が怯えたものを順に覆っていった。
悲しみはないが、違う結果を呼べなかったのかと後悔はある。でも自分に他の道があったかと言えばよく分からない。最後にタイを拾おうと水餓は手を伸ばすが、その時自分に向けられた新たな視線に気づく。
廃棄物の陰には怯え切った二つの瞳。
汚れた水色の服を着た幼い少女が、か細い身体を震わせていた。
「……あ、あ、あ……」
その唇から漏れる声は言葉にならない。
祖母とあのホテルに住むこの少女は、人とは違ったものを時にその目に映すことができるようだった。だからかこの忌むべき地で彼女はいつも怯えている。
今日も運悪く、見なくてもいいものを見てしまった彼女は漏らした小便で下半身を濡らしていた。
「……こ、こ……こわぃっ!……」
最後に絞り出されたのは彼女の心からの叫びだった。
少女はその手から廃棄場で拾い上げていた古びた人形を落とすと、何度も転びそうになりながら男達と同じように走り去っていった。
湿った石畳の上には、布を縫い合わせて作られた女の子の人形が残されている。
それを見下ろし、水餓はぬるい風に吹かれながら無言で立っていた。
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