二話 人食洞 ジンショクドウ

1.新たな案件

 昼下がりの小部屋は異様な圧迫感を持っていた。

 空調が効いているにもかかわらず、酷く蒸し暑く息苦しい。

 中央のデスクには、どっかりと腰を下ろす大柄な男の姿がある。

 自らの上司であるその男、児玉幸夫ゆきおに向けて大倉与志人は報告書を読み続けていた。


「現在拘置中の被疑者野崎司ですが、明日にも起訴される予定です。自宅から被害者の所持品など数点の物証が発見され、その全てが公判証拠として認められました。当人の記憶に曖昧な部分があるのは確かですが、弁護士同席の上での自供は得ています。今後精神鑑定が規定どおり執り行われても受け答えに疑問を思わせる部分はなく、正常の範囲であると判断されるでしょう。殺人課には既に業務を移行済み、四十九課での処理も同様です。案件番号二二七は本日で終了します」

 与志人は顔を上げ、押し黙り続けていた相手に視線を移した。目前の男は耳穴掃除を終えた綿棒をごみ箱に放ると、ちらりと視線を寄越した。

「ああ、分かったよ、了解したよ、大倉君」

 つややかに肥えたその顔には真剣に耳を傾けていた様子は窺えない。報告を始めた時から欠片も興味を示さずに、ただこちらが伝え終わるのを待ち構えていた。

 だがそれは毎度のことでもある。


 四十九課が関わった案件は最終的には殺人課で処理される。したがってこの報告自体に大した意味はない。これは四十九課として事件を終えたという形式的な報告でしかなく、合理性を考えるなら確かに無利益と呼んでいいものかもしれない。

 しかしそうだとしても、毎回児玉の態度はあからさますぎていた。無論労ってくれと言うのでは決してない。ただ聞き流される言葉と同様に被害者達の存在をも軽んじられているようで、その態度には思うところがある。けれどもこちらがどう思おうと、彼が直属の上司であることに変わりはない。彼が事件の早期解決だけを欲しているとしても、陰惨な事件の事後報告に耳を傾けない事実があったとしても、与志人にとっては従うべき相手でしかなかった。


「それでは失礼します」

 与志人は相手に一礼すると背を向けた。

 蟠る憤りの熱は胸の奥で燻らせる。そうすることにも慣れ始めていた。序列の底辺にいる自分ができるのは無心あること、勤勉であること、場に応じた沈黙が可能であること。

 手にした書類を他の無意味な紙束の上に積み重ね、与志人はその場を離れた。

「ああ、ちょっと待ってくれ、大倉君。どうかね? あれ、あれだ……あの〝地堂螢〟の様子はどうかね?」

 背後から届いたその声に与志人は足を止めた。向き直るとそこには緩い笑みを貼りつけた上司の姿がある。


「はい。どう、と仰いますと?」

「こう……おかしな行動を取ったり、こちらの命令に従わなかったり、辻褄の合わないことを言って周囲を惑わせたりだね……とにかく人としてまともでない素振りや態度は見られないかね? あの少年、いや、あの地堂螢に」

「いえ、特にありません。僭越ですが、今仰ったようなことを私が感じた時は一度もありません」

「そうか? そうかね? それは本当かね、大倉君」

 目の前の男が訝しく見上げる。

 整髪料で黒光りする頭髪、縦にも横にも幅を取った体型、手首にはめた高級腕時計と小指の金の指輪がいつも嫌み然とした初老の男。与志人にとってその印象が際立っていた相手の小さな目に、鋭い何かが掠めた気がした。相手は変わらぬ視線で部下を見上げると、太い指を組み直して椅子に深く座り直した。


「そうだな、時が経つのは早いもので、君がこの職に就いてもうじき半年だ。どうやら君は地堂螢とうまくいっているようだね。いや、意見している訳では決してないんだ。これは私達にとっても、彼にとっても、実に望ましいことだと思っているのだよ。君の前任者達は皆ことごとく腹を立てて辞表を叩きつけるか、関わる事件のせいなのかあの彼のせいなのか、心を深く病むかしてしまった。しかし現状でうまく立ち回っている君でも、彼の事情にあまり踏み込んでしまうのはお勧めしない。君は地堂螢の先代、地堂紫露を知っているかね?」

「いえ、まだそれほどは」

「一度記録を調べてみるといい。君の部署のキャビネットの中、あのゴミ溜めのような書類の山のどこかに埋まっているはずだ」


 言い渡した男はくるりと椅子を回し、部屋の隅で常時待機中のゴルフクラブバックに目を向けた。手にした情報端末で週末の天気を調べ始めたらしき形だけの上司は、既にそこにいる部下の存在も忘れているようだった。

「他にご用は」

「いや、ないね。下がって結構」

 背中越しの声に再度の一礼をし、与志人は小部屋を後にした。

 外に一歩踏み出せば途端に肩の力が抜け、自分が随分緊張していたことに気づく。

 理解はしていても納得はまだできていない。そんな未熟な自分を感じて苦笑が漏れた。





 壁一面のキャビネット。

 その場所に押し込まれた多くの書類は今日も昏い沈黙を保っていた。

 過去に一度目にした記憶を蘇らせながら探し当てたファイルの表紙は脆く、崩れそうなほど古びていた。

「これか……」

 与志人が年代を感じさせる黒表紙を開くと一枚の写真がある。

 全てがセピア色になる風景を背にして無表情で佇む、十代半ばを少し過ぎた少年の姿。写真の中の彼は酷く大人びた、人を寄せつけない雰囲気を纏わせていた。


 地堂紫露。

 裏を返せば走り書きされたその名が目に入る。

 地堂家先代である彼は二十年前の出来事を機に警察との連係を始め、四十九課の創設にも関わった。終結に導いた案件は数知れず、キャビネットにある書類の大半が彼が関わったものであるのは間違いない。

 享年八十二才。だが残された写真もその少年時代のものだけで、晩年の姿や彼個人について記された書類は何度キャビネットを漁っても見つからなかった。

 唯一見つけ出せたのは、潰れかけた資料箱の底に眠っていた精神鑑定の書類。ぞんざいに束ねられ、放置されていたようにも見えたそれらは全て日付や重要箇所が黒く塗り潰された判読不可能なものばかりだった。一応読める文字を拾ってみたが現存しない施設名、存命していないであろう人名がほとんどで今知っても仕方がないものしか分からない。


 小一時間ほどキャビネットに張りついてみたが結局望んでいたようなものは見つけられず、与志人はファイルや書類を手に立ち上がったが、最後にもう一度セピア色の写真に目を落とす。

「似てるな」

 冷然とした雰囲気が前に出る面差しではあるが、それは与志人が知る少年の中にもある。

「まぁ、血が繋がってるから当然か……」

 誰に言うでもない言葉を一つ零し、与志人はファイルをしまうとデスクに戻った。

 案件番号二二八。

 埃を被った黒電話が載ったデスクの上には、新たな事件の書類がひっそりと置かれていた。

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