13.深夜の焚き火
ひやりとした手が額に触れた。
その冷たさに目を覚ますと、自分を見下ろす心配そうな顔がある。
「大丈夫ですか、大倉さん」
薄茶の髪が目の前で揺れ、頬に触れる。
与志人は無理に作った笑みを相手に返すと、「ああ」と頷いた。
「この場でできる応急手当はしました。打撲と切り傷だけで骨折はないようですが、病院には必ず行ってください」
「ああ……すまない、ありがとう……」
まだふらつく頭を振りながら身を起こすと、あちこち痛むがもっと耐えられない痛みは過去にもあったはずだ。軽く呻くだけで押し留め、与志人は差し出された少女の手は断って埃だらけの床に立ち上がった。
「おーい、大丈夫かー」
届いた声は階段に腰を下ろした螢からだった。
取ってつけた呼びかけだったが一応心配されていると取って、与志人は肩を竦めて「まあな」と答えた。
「大倉さん、これは回収しておきました」
ライトと手錠と銃。自分が手放してしまったものを手渡される。それを見下ろせば深い自戒が過ぎるが、この場から何かが消え去っているのを知る。
地下室の天井に吊り下がる裸電球は、仄かな灯りを放っている。
目の前をどこかから入り込んだのか、小さな蛾が飛んでいく。
知らぬ間に全てが終わったと感じるしかできない自分を不甲斐なく思うが、張り詰めていたものが緩む。螢の上着を借りているようだが、水餓は無事だ。螢も変わりない。二人の姿を確認した口元からは、ようやく安堵の息が零れた。
「……螢、遭ったか?」
「ああ、男は上にいる。まだしばらく動かないし動けないと思うが、目が覚めてももう前みたいに暴れることはないだろう。何だかんだぐだぐだ言い出す前に連行するんだな」
受け取った言葉に与志人は複雑な表情を作るしかなかった。
『企業秘密だ』
螢は与志人が認知しない場で起きた出来事について訊ねた場合、大抵そう答える。それで納得したことはないが、螢と知り合ってからの出来事の大半がそう結論づけるしかないもので占められているのも確かだった。そう思うのはこの先に続く自らの仕事に対しても同じだった。
四十九課で扱った案件の終了後、与志人は毎回二種類の報告書を作る。
一つは犯人の詳細や逮捕した事実のみを簡潔に書き記したもの。
もう一つは起きた出来事を一つ漏らさず正確に書き連ねたもの。
前者は犯人の身柄と共に正式な報告書として殺人課に提出され、後に一般的な殺人事件として解決の道を辿る。もう一方は今後も誰の目に触れることなく四十九課のキャビネットに直行し、紙の墓場に埋もれていく。
人知を超えた馬鹿力を出す男など最初から存在せず、あるのは固執癖の強い男が身勝手な思いから犯行を重ね、逮捕されたという事実だけだ。
真実を虚構で覆い、キャビネットの奥に押し込めている自覚はある。けれど他にやりようがないのも分かっている。現に男は逮捕され、今後法律に則った裁きを受ける。罪の重さから考えればいずれ最高刑の判断が下されるはずだ。それで遺族の悲しみが癒える訳ではないが、一つの転機になる可能性は秘めている。蟠る感情は心の奥底に沈めるしかなく、でもその中でも自らがすべきことへの意思を強固に持ち続けることが重要だと思っていた。
「ああ、そうだ。与志人」
階段の途中で足を止めていた螢がにやにやと笑っていた。その顔にはろくでもない予感しかしなかったが、それを避ける手段は毎度少ない。
「何だ? 今日は疲れる話ならもう聞かないからな。俺の今一番の望みは報告書を早く書き上げて、早く帰宅することだけだ」
「お前、その怪我を口実にあのデパートの彼女に連絡してみりゃいいんじゃないか。一億分の一ぐらいの確率でヨリが戻るかもしれないしな」
「うるさい、大きなお世話だ、もう放っておいてくれ」
「でも賭けるならまぁ、絶対戻らない方におれは賭けるな」
予防線を張ったがやはり効果などなかった。
忘れかけていた身体の痛みと心の痛みがぶり返す。今日こそはその生意気な頭を小突いてやろうと手を伸ばしたが、ろくでもない少年はそれをするりとすり抜けて暗い階段を駆け上がっていった。
火葬するための焼き場のにおい。
与志人はふと、あのにおいの正体に思い当たっていた。
だがそのにおいはもう消えている。
見上げた階段の上からは、黴びた臭いだけが滑り降りていた。
******
『(どうしてここにいると分かった?)』
同日深夜、国立図書館。
稀少書物が厳重に保管される書庫。
真っ暗な中で探し当てたものは、真に保管すべきものと共に保存されていた。
「独特なにおいがした。今すぐにでも忘れたい、嫌なにおいだ」
『(触るな)』
暗がりの書棚を探ると、螢は一冊の本を取り上げた。
その本の表紙は紙ではなかった。指先に生理的な嫌悪を絡め取る感触がある。
繋ぎ目以外は滑らかさを保つ表面は、身を捩るように蠢いている。
時折独特なにおいを放つその表紙は、幾人かの人皮を縫い合わせて作られていた。
「螢、時間がない。警備が来る」
「分かってる。ちょっと独り言を言ってみただけだ」
闇の中、螢はにやりと笑うと手にしたそれをズタ袋に放り込んだ。
「さて」
螢は袋から取り出した本を地面に放り投げた。
表面にはすぐさま石畳の水分が染みていく。
螢は次々と泥水を吸い上げていくだけの物体と化していく本を見下ろした。
「燐是の住人は
周囲の路地には誰の姿もない。けれどもどこかで息を潜める気配は常にある。
本は身に感じる不快さを示すようにその表面を蠢かした。
『(……わたしをどうする気だ?)』
「だからここででかい焚き火をしたって、煙草に火を点けた程度にしか思わない」
螢の手には透明な液体で満たされた瓶が握られていた。
皮に残された幾本かの人毛が逆立つ。
本は己の持てる最大の力で表面を波立たせるが、宿主のない〝彼〟にとってそれは細微な抵抗でしかなかった。
『(や、やめろ!)』
「これが楽しみだったんだ。今夜の締め括りにこれ以上愉快なことはないと思ってる」
螢は瓶の蓋を開け、透明な液体、ウオッカを躊躇いなく本に流しかける。
取り出した燐寸を優雅に擦り、灯した小さな火を真上から手放した。
『(ぎいっ)』
事の終わりは呆気ないほどだった。
本は瞬く間に火に包まれ、舐める炎に浸食されていく。
古びた紙の切れ端が舞い上がって、足元に落ちる。……生まれ落ちなかったことにされる……。そこに記されていたように見えた言葉はすぐに滲んで、ただの黒いシミになった。
「よく燃えるな」
「螢……あれは一体何の本?」
「誰かの妄執が綴られたクソ日記だ。読む価値も後生大事に保存する価値もない。これが一番いいあり方だ」
人の皮が焦げるにおいが辺りに漂う。
炎の中、過去に本の姿をしていたものはその形を崩し、火葬する焼き場のにおいを撒き散らしていた。
「あー、何か腹減ってきたな……」
螢は炎に煌々と照らされる深夜の路地で呟くと、残り少ない酒瓶を呷った。
〈一話 女殺皮ジョサツカワ 了〉
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