11.野崎司

 捕食者になること。

 野崎は今それを望んでいた。

 自分より長身で体格も立派な相手を、完膚無きまでにぶちのめして気分がよかった。

 今ならこれまで以上にうまく立ち回れる。

 そんな高揚が野崎の全身を包んでいた。


「あの女の子はどこかな?」

『(あの女の子はどこかな?)』


 発する声が二重に響く。

 野崎は自分の背後に忍ぶ、自らに新たな力を与えてくれた存在に笑いかけた。

「君も、気に入った?」

 その存在はある日、野崎の耳元に語りかけてきた。それは野崎が理解できる言語ではなかったが、その裏に潜む本質は一文字も欠けることなく伝わっていた。

 それは抽象的でありながらも、しかし思わず耳を傾けたくなるような魅力的な問いかけだった。その誘いを拒む理由などある訳もなく、あり得ないとまで思った。そこにいるのを許したあの日からその存在は、いつも自分の背後にぴったりと這い寄っていた。

「今度は、ばらばらにしてみようか」

 掲げた提案には背後の存在が暗いざわめきを見せる。これ以上ない同意だと、肌を舐める気配に野崎はそう感じ取った。


「あの子は、どこかな、どこかな」

 身の底から込み上がる欲求。

 弾む心を抑えながら階段を上っていけば、溢れた欲望が垂れ落ちる。

 端から順に扉を開け放っていけば、高まる興奮に思わず喉が詰まった。

「カワイコちゃん、僕が来たよ」

 最後の扉を開け放った野崎の目には、雨も上がった美しい夜空が映っていた。

 外に浮かぶ月は血に濡れた青ざめた肌を連想させる。

 きれいだな、あの子の死体もきっと……。


「うぐぉぁっ」

 だが突如、予想外の呻きが喉から漏れる。

 妄想にとろけ浸った脳は現状把握に時間を要した。

「うあっ……ああ……」

 腹部に受けた衝撃は身体中を駆け巡り、醜い呻きが零れた。堪え切れず吐き戻した昼食の残骸が新品のズボンを汚してしまっても、嘆く暇もなかった。風を切る勢いで頬を張られ、そんなことなど微々たることでしかなくなっていた。

「だ、誰らっ!」

 撲たれた頬はじんじんと強烈な痛みを放ち続けている。

 滲み出た涙を堪えながら声を上げたが、分かっていた。

 叩きのめした刑事の男はまだ地下で伸びているはずだ。

 そこにいるはずの相手を探し、きょろきょろと暗闇を見回すも断念せざるを得なくなる。

 疾風のような蹴りが、側頭部を襲っていた。


「ぎゃふぅ」

 熱い痛みで鼓膜がわんわんと震えた。

 手加減の感じられない暴力には涙が零れ落ちた。

 あの気配を受け入れてから痛みは隔絶されたものだった。しかしそれらは今全て蘇っている。

 苛烈な痛覚は忘れていたはずの畏れを呼び覚まし、蔑むべき怯みが全身を支配する。

 脳がぐらぐらと揺れ、まともになど立っていられない。

 よろめく身体が崩れ落ちていくのを止めらず、床に膝をつく。

 いつまでも重く、身体に残ろうとするその痛みは心までも遠く萎えさせた。

 こんなはずでは……。

 野崎は爪で床を引っ掻き、涙と鼻水で濡れそぼった顔を上げる。

 そこにはこの手で殺すはずだった少女が立っていた。

 彼女の背後には光る月。

 自尊心を酷く抉られながらも、野崎はその姿を怖ろしいほど美しいと思った。


「……あ、ひゃひゃひゃひゃ」

 唇からは下卑た嗤いが漏れる。

「うぎゃっ!」

 しかしすぐに少女に掌を踏まれ、その場で再度悶えることになる。

「昼間は判断できなかったが、今なら分かる。憑かれてると思ったが違うんだな。感化して、同化してる」

 部屋の暗闇からは、冷たい声が響いた。

 新たな痛みに耐えながら野崎は目を向けた。

 月の光が零れる窓際には、逆光になった少年の姿がある。小柄ではあるがその異質さは痛いほど伝わってくる。

 再び背後がざわめいた。

 それは同意ではなく、命令だった。

 あの少年は、今この場で〝廃棄〟しなければならない。

 その言葉は野崎の身体中の痛みを一瞬にして取り去っていた。

 自分のものとは思えない咆哮が、喉奥から迸る。

 それが自らをより昂ぶらせる。

 漲る力で床を蹴り、猛る身体は少年へと向かっていた。


「ぎゃっっ」

 届いた悲鳴は少年のものだと野崎は思った。だがそれが自分のものだと気づかされた時には、背後の壁に背を強く打ちつけられていた。

「い、一体……これは……」

 目視もできずに蹴り上げられ、吹き飛ばされたのだと続けて気づいた。

 素早く動いた相手の右手が喉元を強く掴み取る。

 間近の氷のような瞳。

 少女は無表情のまま力を増していく。

 何一つ抵抗できず首ごと持ち上げられ、踵が浮いた。その行為を片手でやり遂げる相手に身も凍る畏れを抱くが、そう思うことさえ困難になりつつある。

 呼吸が遮られ、生命の危機を感じる。何度も漏れる呻きと共に咽せた唾が吐き飛び、その時突如解放された。


「……も、もう、許……」

 床に額を擦りつけながら、すぐさま許しを請うていた。

 無様な姿を心中で叱咤したが、今はこうすることしかできなかった。でもそう思う傍らで真逆の考えが野崎の中で拮抗し続けていた。

 自分は敗北などしていない、まだだ。そうなれば自分が屠ろうとしていた相手にしてやられることなど、今後の人生にはあってはならないことなのだ……。

 敗北と懇願を装いながら、野崎は密かに逆襲の機会を窺った。

 その目は少女の左手に向いた。容赦ない攻撃を放ちながらも少女のその左手の動きが僅かに鈍く、庇っていることに気づいていた。

 あの手袋をした左手を狙えば、自分にもまだ勝機はある。

 涙が滲んだ目で見上げれば、その相貌に微かな油断を見た気がした。

 好機を掴んだと信じた身体は許しを請う欺く目で、相手に襲いかかっていた。


 ―――――――。

 自分が見ているのは誰かの靴の爪先、手にあるのは黒革の手袋。

 野崎は床に伏した自分の目前にあるのが少女の靴先、手にした手袋が少女から奪い取ったものだと知った。

 再び認知する間もなく、彼女に平伏された恐怖。それが全身を駆け巡っていた。

 得難いその事実を染み込ませながら見上げた先には、自らを見下ろす少女の姿がある。

 しかし何よりも己の恐怖心を攫うものがそこにあった。

 手袋を奪われ、剥き出しになった左手。

 それは節くれ立った皺だらけの老人の手だった。

 そこにあるべきではない、そのおぞましさに怖気が走る。見てはいけないものを見てしまった咽頭は、掠れ切った声を漏らすのが精一杯だった。

「……ご、ごめんなさ……い……」

 その言葉が受け入れられるはずのないものだと分かっていても、そう言うしかなかった。

 相手に振り払われても、自らを守る本能で力任せに腕に縋りつく。

 だが、びりびりと、少女の右袖を破いてしまう。

 裂けたシャツの下に現れたのは不健康に浅黒い、無数の注射針の跡が残る、手首まで極彩色のタトゥーが描き刻まれた右腕だった。

 脳裏には様々な憶測が過ぎる。再度やらかしてしまった自分には様々な感情が渦巻く。

 もうそんな自分が発することができるのは、震え消え入る懇願だけだった。


「ゆ、許して……」

 見上げた少女の瞳には、何も映っていない。

 敏速の拳が鼻を折る。

 襟ぐりを掴まれ、無理に立たせられれば腹に膝が入った。

 身体を二つに折れば、背に肘が落とされる。

 華奢な体格からは想像もできない、あり得ない重さと残虐性を感じる攻撃が途切れることなく降りかかった。

 鼻血を垂らし、血反吐を吐いても少女の制裁は止む気配もない。

 その中で幸いといえば、痛みを感じないことだった。

 野崎は背後の存在に語りかけた。

 ねぇ頼むよ、痛みを抑えてるだけじゃなく、助けてくれよ。

 この女は化け物だ。この半端ない力だけじゃない。左手が老人、右腕も別物の化け物だ。それだけじゃないかもしれない。あのしなやかに見える身体も、あのきれいな髪も、あの美しい顔も、本物かどうか全てが疑わしい化け物だ。助けてくれよ、僕らは共存する仲間だろう?


《………ぐずりずぶり》

 潜んでいた背後の気配が僅かな反応を見せる。

 ぞくぞくとするその感触は、自分がまだ終わっていないと野崎に思わせた。

「なぁ、お前」

 だがその声に気配の蠕動がぴたりと止む。

 まるで怯えているかのようなその反応は、野崎の不安を深く煽った。更なる黒い予兆が舞い降りても、背後の存在は硬化を解く気配を見せなかった。

「その〝人の部分〟が、滅茶苦茶になる前にいい判断しろよ。水餓は手加減しない。そいつと心中するつもりはないんだろう?」

 その言葉と同時に野崎の身体から何かが、ふっ、と去った。

 己に迫り来る気配を感じた野崎は、全身が震え出すようなそれを怖れて全ての感覚を総動員させようとしたが、既に遅かった。

 喉から迸ったのは、まさに断末魔の叫び。

 消えていたはずの痛みが身体の奥から一斉に蘇っていた。

 想像を絶するその激痛に耐え切れず床を転がり、テーブルをひっくり返し、髪を引き毟っても、逃れられなかった。次第に叫び声を上げることすら不可能となっていた。

 それは数分か、数時間か、それとも数秒だったのか。

 全ての痛みが引いた後にやって来たのは、どこまでも落ちてゆく脱力感だった。

 野崎はその中で背後に語りかけようとし、そこでようやく自らに常に寄り添っていた存在がその場所から去ったのを知った。


「どうして、だ……? 見捨てた、のか?」

 自分はもう捕食者ではない。

 強者ですらない。

 あんなにも猛っていた感情は消え失せ、その場所には空虚だけがある。

 いなくなったあの存在と共に、己の歪んだ欲望も消え去っていた。

「僕を……殺すの……か?」

「殺しはしない。お前はこれからも無様に生きて死ぬまで罪を償うんだよ」

 夜空の月が雲に隠れ、完全なる闇となった相手が答える。

 自分の命が奪われないことに野崎は安堵する。

 重い瞼を閉じれば、身体の下になっていた手袋をするりと奪われる。

 その感触が今意識を手放してはいけないことを気づかせたが、鉛のような身体を横たえて野崎は深い眠りに落ちていた。

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