10.最悪の遭遇

 玄関扉を抜けフロアに忍び入れば、中央に大きな螺旋階段があるのが見える。

 図書館の男、野崎司の自宅はこの国には珍しい土足の家だった。

 全体の一部でしかないこのフロアだけでも余裕の間取りが窺え、よく見れば安普請でも広さだけなら屋敷と呼んでも遜色はない。

 先を行った黒い服の二人は、音もなく螺旋階段を上がっていった。二人分の影は闇に消え、まだ残る懸念でその姿を見送った与志人はまず足を右手側の扉に向かわせた。


 扉を開けば片方は壁、もう一方は窓が続く狭く長い廊下がある。

 外では今も雨が降り続いていた。

 廊下には月の光も届かず、手にしたライトがなければほぼ闇だった。毛羽立った絨毯が敷かれた通路を進み、与志人は扉を一つ一つ開けて中を確認していくが、そんな捜索を始めてすぐに首を傾げる事態に陥っていた。

「……この間取りは一体……」

 洋風扉を開けるとそこは畳敷きの和室。長い廊下は続くのに、部屋の入り口が一つも見当たらない。そのままどこに辿りつくかと言えば、結局行き止まり。ようやく扉を見つけて開ければ部屋はなく、一面の壁……。

 外観も妙だったが、家の内部も充分奇妙だった。出会うそれらの間取りに意味があるとは思えず、まるで訪問者を騙し討ちにして密かに嘲笑っているようにも感じる。何よりも不自然なのはこの間取りを設計した人物、明らかに不便でしかないそれを了承した最初の家主、彼らの思考や思惑が何一つ理解できずに不気味にさえ思った。


 幾度か惑わされながらどうにか一階の捜索を終え、与志人は最後に見たキッチンで一息ついていた。とりあえず分かったのはこの家の造りが奇妙であることと、一人暮らしにはどう考えても広すぎるということだ。まともに使えそうな部屋でも数年立ち入った形跡もなく、それもただの空き部屋か物置代わりにしか使用されていない。それらを含めた一階全てを見回ったが、そのどこにも現在の家主の姿を見つけることはできなかった。

 その時、ぎぃ、と背後で音が鳴った。

 振り返ればキッチンの端、古びた扉が既視を感じさせて揺れていた。

 扉の隙間からは黴臭い風が吹き上がってくる。

 地下室へ続くその隙間の闇は一段と昏い気配を放っていた。


「誘われてるって、やつか」

 外降る雨はまだ窓を強く叩いていた。

 与志人はホルスターの銃を抜くと扉に慎重に近づいて脚で押し開いた。

 下に続く木の階段を下りる度、埃と黴びた臭いが増していく。

 手にしたライトの光が曝き出していくのはいつのものかも分からない段ボール箱、いつの時代のものかも分からない家電品。大量のそれらが不規則に積み重ねられ、鬱蒼としている。この数年で蓄積されたとは思えないそれらのものは、歴代の家主がここを去る度打ち棄てていったものなのかもしれなかった。


 ひゅっ、と風を切る音がこめかみを掠めた。

 続けて裂くような激痛が走り、与志人は気づくのが遅かったと感じた。頬を伝う血の感触を知った時には、両手首を新たな衝撃が襲っていた。

「うっ……」

 迂闊にも手放してしまった銃は何者かに蹴り飛ばされ、ライトは埃だらけの床を転がっていく。周囲を見回す間もなく、更に続いた背中への衝撃に抗えずに前のめりに倒れ込んでいた。

「ふぅん。銃を持ってるってことは、あなた警察の人?」

 呻きながら顔を上げれば、床のライトが相手の足元を照らしている。

 姿を見上げようとするも、見るなと言わんばかりに背を踏みつけられ、再び床と顔を突き合わせることになる。


「うーん、どうして警察なんかに嗅ぎつけられちゃったのかなぁ? 僕は前歴もないし、社会的地位もあるし、ご近所さんにも愛想よく挨拶するナイスガイなんだけどなぁ。何かを疑われる要素は一個もないんだけど」

 頭上の声は呑気な世間話でもするように続いていた。逆に背中を踏みつける力は止む気配もなく、暴虐感を振り撒きながら増していた。

「だからね、僕のこの静かな生活を侵す奴は、どうしても許せないよ。絶対排除すべきだよねぇ。ねぇ、そう思うだろう?」

 男の声は誰かに語りかけるように響く。与志人はその隙に身を捩り男の足下から逃れようとするが、結果これまで以上の衝撃が背に落とされる。

「うぐっ」

「なんかさぁ、君、けーさつなのに弱っちいねぇ」

 男は勝ち誇ったように脇腹に蹴りを入れてきた。

 的確に意思を抉ろうとする重いそれは何度も繰り返される。

 与志人はその攻撃に耐えながら反撃の機会を図っていた。男が放つ攻撃は確かに重いがそのどこかに軽さが感じられる。邪悪な無邪気ささえ感じる振る舞いには綻びのような隙もある。相手が再度脚を振り上げようとした時、与志人は素早く身を起こすとその脚を捉えていた。


「うわわっ!」

 バランスを崩された男はそのまま転倒の道を辿る。与志人は仰向けになった男の胸倉を掴み取ると、身体ごと床に叩きつけた。

 隙を与えず相手に馬乗りになり、喉元に強く左腕を押しつける。

 真上から直視した顔は間違いなく写真の男、野崎司だった。

「くっ、くそぅ、よくもこの僕に……お前、その手を離せよ! お前なんかがこの僕にこんなことをしていいと思ってるのか!」

「知るか、お前こそ何様だ」

 男は床の上で埃にまみれながら抵抗する。

 その両肩を膝で捉え、与志人は手錠を手にした。殺人に対する容疑は確定していないが、別の容疑は確定していた。

「お前、僕を一体どうする気だ? そうか、分かったぞ! 抵抗もしない相手を一方的に痛めつける気なんだな! こんなの不当な権力の常套手段だ! 僕はそんなもの決して受け入れないし認めないからな! 僕は絶対負けないし、屈しない!」


 止めどなく吐き出される被害者妄想的台詞には言葉もなかった。与志人は男の同僚達の苦労を今思い知るが、彼らのように付き合う義務もない。力も抜かず、小うるさく叫ぶ男の頭部を掴んで床に打ちつける。少し黙ってろ! そしてそう言うつもりだった。

 身体が宙に浮く。

 重力に従う身体が床に落下してから、与志人は事態を掴んでいた。

「あのさぁ、弱っちいって、さっき言ったろう?」

 野崎の拳が何かを発する前に身体にめり込む。

 髪を掴まれ、再び放り投げられる。

 二度目の落下、床に着くよりも早く与志人は野崎の膝を背中で味わっていた。


「こーゆう権力を徹底的にやっつける僕、かっこいいよね。一度やってみたかったんだー」

 多くの疑問が与志人の脳裏を掠めたが、考える余裕はなかった。呻いて床になだれ込んでも、一方的な暴力ショーはまだ始まったばかりだった。

「楽しいねぇ。僕、何にでも優位に立つのが好きなんだー。それが正当に得たものじゃなくてもちっとも構わない。だって上に立ってこそ、人生ってものだよね」

 野崎は中肉中背。特に体格に恵まれてもいない。

 しかしその腕力、脚力、攻撃速度。

 どれ一つ取っても重く、目にも止まらない、人間離れした力だった。

 優男は柔らかい口調で話し続ける。だがそこから滲み出るものに感じ取る嫌悪は止められなかった。


「僕ね、自分にぴったりな女性を探し続けてるんだ。僕に似合う、そんな全てに於いて高得点な女性をね。世にはこんなにたくさんの女の子が溢れてるんだ。僕の眼鏡に適う子はいっぱいいたよ。僕は嬉しかったさ、彼女達を見つけた時にはね。だけどね、違ったんだ。どうしてだろうね? どうして彼女達は僕の理想どおりに行動してくれないのかな? どうして僕が思うとおりに一ミリの狂いもなく行動してくれないのかな? だから〝廃棄〟することにしたんだよ。四人ともやっとこぎ着けた一度目のデート中だったけど、仕方がないよね。仕方がないけど、僕の後で誰かがそれに手を出すのはヤだったんだ。そういうものだよね。分かる? だからアレらには死んでもらった。もちろん死んだ後には僕の印をつけておいたよ、当然ね。一応まぁ、僕のモノだから。あ、そうだ、ねぇ君。『あなたは自分のことしか考えてない』って言われて我慢できる? 僕ね、我慢できなかったんだ。樹里。あいつ、あのクソ女。当然廃棄したけどその後も我慢できなくて二、三回捻っちゃったよ。そしたら壊れた人形みたくなって、笑えた。今でも時々思い出すと、笑っちゃうねぇ。けれど最近……僕、理想の女性なんてどこにもいないんじゃないかと思い始めてるんだよ。でもそれでもいいような気がしてるんだ。だって僕、近頃廃棄すること、つまりは殺すことだけが楽しくなってきてるんだよね」


 男の言葉はまるで料理の手順でも語っているようだった。虫酸の走る話を楽しげに語りながら絶え間なく相手に拳を落とし続ける男。

 醜く嗤う背後には暗い、底のない影が虚ろっていた。

 そしてあの不快としか言えないにおい。

 犯人が目前にいるという事実を得ながらも、与志人の意識は失われつつあった。

「あ、そうだ。君とさっき一緒に来た女の子。僕の好みより少し若いけど、きれいな子だったねぇ。あの子は一体どんな壊れ方をするのかなぁ」

 逃げろ、水餓……螢……。

 床を転がるライトが与志人の血に濡れた顔を照らす。

 願いは声にならず、遠くなる意識と共に消えていった。

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