8.彼の遺したもの
男の自宅は、職場から随分と離れていた。
図書館から車で四十分ほどの郊外に一人暮らし、名は
その情報を手に戻った与志人を待っていたのは、背後から届く不機嫌な声だった。
「遅かったな。待ちくたびれて腹、減ってきた」
「はぁ? 腹が減ったってついさっき食ったばっかだろ。もしかしてお前の頭の中はメシのことしかないのか?」
「それの何が悪い? じゃあ代わりに女の裸のことでも考えてればいいか? 十代のガキみたいに」
「ああ、そうしろよ。ぜひ推奨する。そして悶々としてきたら運動でもしろ」
「はぁ? 何だそれ? ならお前はそれでスッキリしたかよ? そんなクソみたいなクソ論理で知ったような顔するな。おれはお前と違って、ゼイゼイはあはあ汗水垂らして自分を追い込む自虐プレイなんか好きじゃないんだよ」
届いたその言葉に与志人は目眩すら覚えた。
不用意に発言すれば、それは時に何倍にもなって返ってくる。この後も不毛な言い合いをするつもりは毛頭なく、与志人は無言で車のエンジンをかけた。
「写真の男は?」
「いなかった。早退したらしい」
「気づいたかな」
「話しかけてもないのに?」
「本人が気がつかなくても、気づかせられる奴はいる」
その言葉に与志人は昏い予感を感じた。
図書館から姿を消した男。螢の言葉が何を意味しているかは分かっていた。
自らの理解の範疇を超えたこの五ヶ月の出来事。その中で出会したこれまでの常識を覆す過去二回の遭遇体験は、その都度しばらくの間与志人の睡眠を妨げた。毎度それを間近に感じる度に自分が持ち得る常識との一線をどこで引けばいいのか分からなくなる。
与志人は何も言わずにアクセルを踏むと車を郊外へと走らせた。だがふとあることを思い出し、皺の増した封筒を懐から取り出した。
「螢、これ」
「何だそれ?」
背後に差し出したのはあの路地裏で死んだ男、斉藤公紀が持っていた封筒だった。あの日から肌身離さず持っていたが、これまで機会がなく渡せずにいた。
「三週間前、お前が遺体を見つけたと連絡してきたあの時の男が持ってたものだ。どういう経緯か知らないが宛名がお前宛になっている。燐是にいたのは直接渡そうとしたからじゃないかと思うが、まぁ真相は分からずじまいだな」
「そんなものいらない」
「は? いらないって、まだ何も見てないし手にも取ってないだろ?」
「そんなものいらないからいらないって言ってる。死人が持ってたものなんかいるか」
螢は言い放つと封筒を差し出した左手ごと靴の裏で押し返してきた。あまりにもなその態度には片眉が上がりかけたが、その心内を想像できないでもなかった。
この封筒は斉藤公紀が最期の瞬間に身につけていたものだった。触れてしまえば望まなくても何かが見える。本人が望ましく感じているようには決して見えないその行為は、避けられるなら避けたいものなのかもしれなかった。
「何だよ急に押し黙って。もしかして同情でもしてんのか」
「……別に」
「おれはそんなものただいらないだけだ。死んだ奴は死んだ奴だ。そいつがおれに何かを言いたかったとしてもそいつはもういない。何を残したか、何を知らせたかったか知らないが、おれは既にいない奴のためにクソ無駄な言葉でクソ無駄な時間を割くほどクソ暇じゃない」
「分かった、分かったよ」
与志人はそう言いながら封筒を手元に戻した。
僅かな言い淀みで相手には全てを悟られていたようだ。口の悪い背後の少年は頑なだ。そして癪に障るほど勘がいい。
「分かったよ、これは受け取らなくてもいい。でも俺が調べたことぐらいは聞いてくれ。それくらいは構わないだろ?」
返事は戻らなかったが、与志人はそのまま続けた。
「申し訳ないが、封筒の中身が何なのか見てしまった。言い訳になってしまうが、封がしてなかったから傾げた拍子に中のものが見えてしまったんだ。それで見たついでにその内容物について俺なりに調べてみた。封筒の中身はフロッピーディスクというものだった。螢、お前ワードプロセッサーってものを知ってるか? ソフトじゃなくてそういうハードのことだ。俺も知らなかったが、三度目の世界大戦前の前々時代の文書作成用器機で、それに使う記録媒体だった。斉藤はそれを使って何らかの文書を作成していたようだが、その内容を確かめるには本体器機が必要だ。けど随分前の絶滅種みたいなそんな器機を今も使用してるのは、彼のような稀なケースぐらいだろう。俺は斉藤のアパートを訪ねてみた。彼の遺体をモルグに運んで二日経ってたが、部屋はまだそのままだった。ただめちゃくちゃに荒らされていたがな。ワードプロセッサーはベッドの下にあったよ。叩き壊されて修復不可能だった」
斉藤の自宅扉には借金取り立て屋の過激なビラ。立ち入った室内も嵐が通り過ぎた後のように荒らされていた。テーブルや椅子は倒れ、引き出しやタンスの中身は散乱し、ベッドのマットレスは切り裂かれ、台所洗剤や風呂場のシャンプーまで床に撒き散らかされていた。
業を煮やした借金取りが腹いせのためにやったのか、何かを探していたというよりそこに込められた悪意混じりの警告のようなものを感じた。
多額の借金だけでなく、斉藤は何か拙いものにでも関わっていたのか。だが螢の言葉を借りれば彼はもう死んで、ここにはいない。生前の彼が螢に渡したかったものがあったとしても、受け取りをその螢自身が拒否した以上、強制することはできなかった。
「この封筒はとりあえず俺が預かっておく。でも螢、気が変わったらいつでも言ってくれ」
それでもまだ未練を残して言葉を向けたが、背後から返事はなかった。
「大倉さん……」
代わりに水餓の申し訳なさそうな声が隣から届く。
ルームミラーを覗けば、そこには涎を垂らして惰眠を貪る少年の姿があった。
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