6.イタリアンレストランエンツォ

「いらっしゃいませ」

「おれ、ペペロンチーノ」

「……俺は、コーヒーで」

「わたしは結構です」

 ウェイターが去ると、テーブルには沈黙が残される。

 与志人は先程から感じていた疑問を隣の相手に向けた。


「なぁ、どうして俺達はここにいるんだ?」

「この店のテーブルクロス、これがペペロンチーノの皿が載ってたのと同じだった」

 答えた相手の指が得意げに軽くテーブルを叩く。

 与志人達が今いるのは、図書館の徒歩圏内にある一軒の洒落た雰囲気のイタリアンレストラン。オープンキッチンに接したカウンター席と、赤いチェックのクロスがかけられたテーブル席が六つ。午後三時を過ぎた今では食事より、お茶を楽しむ客が多く見受けられた。


「だから辺りの店を一軒一軒覗き込んでたのか?」

「そういうことだよ、大倉君。おれが無意味なことをしてたとでも思ったか」

「いや、そういう訳じゃないが……」

「与志人の心配は分かる。単にここで飯を食って終わるだけの展開になるのを気にしてるんだよな。確かにそうなる可能性はある。だけどいい加減この仕事というか、この流れに慣れたらどうだ、与志人。普通の捜査なら殺人課がやる。五ヶ月は経ったが素人に毛が生えた程度のお前がこの仕事を任されてるのは、道端の地蔵さんみたいな忍耐力と阿呆みたいにずば抜けた体力を持ってるからだ。お前のいいところはそれだけ。あ、すぐ女性に振られるっていうのもあったな。でもそれは今関係ないか」


 与志人は流れるように繰り出される言葉群に再び何とも言えない気分を味わう。

 相手の言い分に間違いはないが、その中になぜわざわざこちらの脱力をいざなう言葉を入れ込まなくてはならないのか。しかし、これまでも同様の思いは幾度も味わっている。果たしてそれに慣れてもいいものか疑問は残るが、忍耐力があるのは確かに間違いない事実ではある。それを限界まで発揮すれば、これしきのことぐらいやり過ごせないこともなかった。


「すげぇ、うまそう」

 オーダーした料理は程なく運ばれてきた。早速見惚れるほど美しくフォークに巻きつけて食す螢の姿は、先程の悪態がまぼろしかと思うほど育ちよく映る。口さえ開かなければ螢は良家の子息に見える。その姿を見守る水餓はさながら執事のようにも映る。彼女はいつもと変わらぬ静かな表情で、水のグラスにも手をつけていなかった。

 水餓のことは気にするな。

 螢に出会って早々そう釘を刺されたことを与志人は思い返す。今日のようにテーブルを囲む機会はこれまでもあったが、彼女が何かを口にする姿は一度も見たことがなかった。


「うまいな、このペペロンチーノ。これで千八百円……安いな」

「そんなに安くもないが、燐是でなければ普通にもっと安くてうまいものが毎日食べられる。まぁ、分かってると思うが」

 感嘆する螢に与志人は言葉を返した。

 分かっていても、燐是に住み続けている。

 螢が持つ理由は知りようがなく、訊ねたとしても正直に答える相手でもなかった。

 理由はあの〝穴〟のせいだろうかと与志人は思う時もある。先代が完全に塞ぎ切ることができなかった穴。それの近くに居続けることに意味があるのだとしても、真相はやはり自分の知るところにはなかった。

 霧か……。

 与志人は呟くと、懐から戸川樹里の写真を取り出した。

 今も街のどこかに潜む犯人。新たな被害者の写真を再び手にする事態は必ず回避しなければならないことだった。


「あの、ちょっとすみません」

 与志人はテーブルの傍を通りがかったウェイトレスに声をかけた。この店の食事が戸川樹里の記憶にあったのなら、彼女がここに来た可能性はある。何らかの手がかりが残されているかもしれなかった。

「私はこの写真の女性の情報を集めているんですが、彼女がここに客として来たことはありませんか?」

 足を止めたウェイトレスに与志人は取り出した写真を見せた。

 ショートヘアのその若い女性店員は突然の質問に怪訝な表情を見せることなく、写真を受け取ってくれた。しかししばらく見つめた後、「すみません、思い当たりません」と申し訳なさそうに返す。望んだ返事は聞けなかったが、元より客の一人一人を全て記憶に残しているはずもない。与志人は礼を言って写真を受け取ろうとしたが、突然奇妙な声が隣から届いた。


「あひゃひゃひゃひゃ」

 それを発したのは螢だった。続けて彼は困惑するウェイトレスに声をかけた。

「今のような笑い方をする男性客が来たことがないですか? ぼくとこの人でその男性の情報も集めているんです。訳あって理由は話せませんが、ぜひ協力をお願いします」

 整然と語るその姿は不遜でも怠惰でもなく、まさに良家の子息にしか見えなかった。そのあまりにもの変わりように与志人は目を瞠るが、笑い声を耳にした彼女が「あ」と小さく声を上げていた。

「その笑い方、聞いたことがあります……その人多分、店に二、三度来たと思います」

「少し印象深い笑い声だからね」

「え、ええ、印象に残ってます……」


 誰かのむかつく笑い声。そう形容したことなど忘れ去ったような螢の言葉に彼女は控えめに苦笑する。螢は相手に品よく笑いかけながら、与志人の前に何かを差し出した。テーブルの上に置かれたそれは見覚えがあるものだった。

「え? これって俺の携帯……」

「今日、あの時間にいた男だけだ。犯行が不可能そうな老人と子供は外した」

 螢が小声で囁く。いつの間に盗ったのかというのは今は問わないことにし、与志人は携帯電話のデータを開いた。

 必ずしも中央に人物を捉えられたものばかりではなかったが、顔の判別は一応できる。そこには螢が図書館で盗み撮った男性達の写真が並んでいた。

「すまないけど、今度はこの写真を見てもらえないかな。その笑い声の男がここにいないか」

「あの……見てもいいですけど、今は仕事中なのでちょっと……」


 やや強引なこちらの申し出に相手は困惑した表情でいる。

 思えば今は客も多い営業時間内である。一人の客のためにずっと同じテーブルにいる訳にもいかず、その表情には完全な拒否ではなく協力したいという思いも窺えるが、これ以上無理を言って迷惑をかける訳にもいかなかった。

「ああ、それなら大丈夫。今から身体の大きなこの彼が、この店で一番高いものから二つ、いや、三つオーダーするから」

「えっ? ちょっ、ほた……」

「だからオーダー入ったって言ってきて。見るのはその後でいいから」

 そう告げて螢は彼女をテーブルから送り出す。

 にやりと笑うその顔を見て、与志人は慌てて手元のメニューを開いていた。

 この店で一番高額なのはラムステーキ四千三百円、次は特製ビーフシチュー三千五百円……。

 情報獲得に代償は付きものだが、薄給な自分の財布の中身を思い浮かべれば悲哀の方が大きい。肩は自然に落ちていた。


「あのな、螢。俺はお前みたいに金持ちじゃないんだよ……」

「確かにおれは金持ちだ。だから心配するな、与志人」

「だったらもしかして支払いはお前が……」

「お前が食い切れなかったら全部おれが食ってやる。だから心配するな、与志人」

 再び相手はにやりと笑う。

 心配するなというその言葉に一欠片の望みを見てしまったが、無駄でしかなかった。けれど期待を裏切らない言葉かと言えば、そうでもある。

 目の前にいる相手は本当は悪魔ではないかと、与志人は時折そう思う。

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