5.新慰東京国立図書館

 新慰東京国立図書館。

 先進性を求めるより歴史を遺すことを選択した外観は、図書館と言うより博物館のようにも見える。

 燐是から遠く離れた十二区中里見。周囲の穏やかな景観に溶け込んだ帝冠様式の建築物は、真白い壁を昼下がりの空の下で輝かせていた。


「螢、さっきの言葉が指してたのはここじゃないか?」

『白い建物、その前にある裸の女の像の噴水』

 与志人は先程の言葉を耳にして、すぐにこの場所に思い当たっていた。中学を卒業後上京し、六年前まで過ごした高校の校舎がこの近くにある。図書館とは縁遠い学生生活だったが気晴らしに数回、隣接する公園に来たことがあった。

 多くの人々が行き交う図書館前には水しぶきを上げる噴水がある。その中央には花を象った彫刻に囲まれた美しい裸婦像が建っていた。


「どうなんだ? 螢」

「先に訊くが、どうしてこの場所を思いついた?」

「え? ああ、この近くに昔通ってた高校があるんだ」

「高校?」

「まぁ当時は全くと言っていいほどここには縁がなかったが、建物自体は知ってたからな」

「それだけか?」

「何だ? 脳筋まみれの青春を送ってた俺が図書館の場所を知ってたらおかしいとでも?」

「そんなとこだな。自分から自虐まみれに告白してくれて助かる」

「いくら脳筋でも図書館の場所くらい知ってるさ。それに……」

「それに?」

「いや、何でもない……」

「何でもないって、何だそれ?」

「そんなことよりどうなんだ? 合ってるのか」

「ああそうだな、残念ながら合ってるよ。この場所で間違いない」


 もう一度問いかけると、螢は肩を竦めながら同意を返した。その後周囲を確認するように見回した後、水餓と大理石の階段を上っていった。

 燐是では違和のない二人の姿も陽の光が降り注ぐここでは異端に見える。彼らの姿に今更のような違和感を覚えながら、与志人も辺りを見回した。

 この周辺は図書館を中心とした広大な公園になっている。整備された舗道を進めば、芝生と木々が茂る広場に行き着く。どこを見回しても、子連れ家族や図書館目当ての学生達の姿が見受けられる平和でのどかな風景がある。


 それは完全なる対比だった。燐是を暗とすれば、ここにあるものは明だった。

 しかし、遺体が遺棄された見無川の河川敷がここと目と鼻の先にあるのも確かな事実である。

 暗と明は分断されたものではなく、互いに絡み合って存在を為している。時に目を逸らしたくなる事実であってもそれが現実だった。

 見上げた場所には翳りのない青い空がある。

『お兄ちゃん、早く』

 今日と同じ晴天の日、階段を駆け上がっていった元気な姿が蘇る。

 まだ高校に通っていた頃、当時中学生だった妹が田舎から遊びに来たあの日、彼女はその場所で屈託ない笑顔を見せていた。その記憶が蘇ったのに先程言い淀んでしまったのは、彼女はもうどこにもいないからだった。

 与志人は留まる感情を胸の奥にしまうと、陽射し溢れる図書館の階段を駆け上がった。



******



「おれはペペロンチーノが気になる」

「何だって?」

「さっき見えたやつだ。うまそうだった」

 図書館内部は心地よい静けさに包まれていた。

 数多くの本棚が規則的に列を為し、そのせいで薄暗く感じてもそれが穏やかな時間をより深いものにしている。

 隣には明度が落ちた途端にこの場に馴染んだ少年の姿がある。静寂に似合わない笑みを浮かべ、机の下で足をぶらつかせた。


「ペペロンチーノ? 螢……以前から思ってたが、お前は食い物の話をしている時が一番幸せそうだな」

「燐是の外に出れば正当な値段で食べられる。金には困ってないが精神衛生上いい」

「それなら捜査が終われば、どれだけでも好きなだけ食べればいい」

「捜査? 捜査するのはお前だろ、大倉刑事。おれじゃない」

「そうだな……それは俺だけの仕事だった」

「おれは死人のものを触って見るだけ。その後はお前が捜し出して、おれは追い出すだけ」

 そう言って黒い服の少年はこの先の食事に胸膨らませているのか、随分と機嫌のいい様子で本棚の陰に消えていった。その背後を黒い服の少女が影のように寄り添う。

 一人その場に残され、与志人は周囲を確認した後に一冊のファイルを手元に取り出した。数枚の報告書と写真が挟み込まれたそれは昨晩も目を通した捜査資料だった。


 被害者、戸川樹里の死因は絞殺だった。彼女の肌には遺棄時の擦過傷が無数に残されていたが生前の暴行の形跡は見られず、身体を捻られたあの行為も死後に行われたものだった。それはせめてもの救いと言えるが、彼女や彼女の家族にとっては怖ろしく惨たらしい事実であることに変わりはない。

 被害者に現在の交際相手はいなかった。過去交際していた二人に関しても、どちらも死亡推定時に別の場所にいたと確認が取れている。だがそれ以前に彼らに彼女の命を奪う動機はなく、それは友人達にしても同じだった。

 彼女、戸川樹里は明るい性格で成績も優秀。誰からも愛され、家族との関係も良好。有名企業に就職も内定し、輝かしい未来が待っているはずだった。そのことは他の被害者四人も同様だった。いずれも十九才から二十三才の若い女性。派手なタイプではなく、まじめで清楚。そして皆、とても美しかった。


 両親から手渡されたという戸川樹里の写真に与志人は目を落とした。

 死んでいない、生きていた頃の彼女の姿。

 弾けるような笑顔と生命力がそこにある。無惨な死体になっていた彼女はここにはいない。

 彼女の両親には、この頃だけの記憶を持っていてほしいと心から願う。

 写真から目を離すと、与志人はもう一度周囲を見回した。

 この場所では小さな声も高い天井に吸い込まれ、時折ざわめく谺となって戻ってくるだけだ。

 それぞれの時間を過ごす利用者達。今ここにいる誰かがもしかしたら犯人かもしれない。彼女はここに来て、不運にもここでその誰かと知り合ったか、ここで目をつけられたのか。


 この図書館は被害者達の勤務先、学校、自宅を含む行動範囲内にある。今はまだ何も掴めていないが、ここにいる誰にでも可能性が存在し得る。

 ペペロンチーノ、暗い部屋の蝋燭の灯り、右の掌のほくろ。誰かの笑い声、紙の匂い。

 螢の言葉は必ず有益性を持つものばかりでなく、最後まで意味を為さないものもある。それに従うのには今でも迷いと危惧があるが、確実でないとしても可能性はある。

 螢の言葉が指し示すこの場所。ここにいる従業員達に利用客達。最終的に何かを得られなかったとしても、一度疑いの目を向けることは必要だった。


「美人だな」

 その声に振り返ると、螢が立っていた。

 視線はファイルの写真に向けられている。隣の椅子に緩慢に腰を下ろして長い欠伸を一つした螢は気怠げに口を開いた。


「なぁ与志人、この世で一番面倒なのは人の欲望ってやつだ。すごい奴になりたい、たくさん金が欲しい、いっぱい女を抱きたい、いっぱいいい男に愛されたい、自分だけ見てほしい、だから邪魔なあいつはいなくなれ、あいつもいなくなれ、ついでにこいつもいなくなれ、終いにはみーんな消えてしまえってな。際限なく続いていくそういうところに人間は知らぬ間につけ込まれる。それは世に溢れるろくでもない山師とか、あのくだらない霧に影響されたものとかにな。だけどどんな目に遭おうと人の欲望は消えたりしない。それは生まれついて、どこまで行ってもそれは人間だからだ。死ぬまでそれは変わらない。いや、死んでも変わらないか……なぁ与志人、変わることのないこれは本当にしょうがねぇ人の業ってヤツだな」


 少年は投げやりな口調で言葉を放り出す。

 表情には言葉とは裏腹に深く刻まれたものが映り込んだ。

 彼が時に浮かべるそれは、深淵を覗いたことのある者のそれだ。彼に限らず過去六年、与志人は幾度となく見た経験があった。


「螢、つまりお前は何が言いたいんだ?」

「つまりおれは腹が減ったんだよ、与志人。メシ、食いに行こうか」

 暗澹とした緊張は一瞬の後に消える。

 少年はそこで何もなかったように笑っていた。

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