4.この街の経緯
「与志人、先に〝穴〟に行ってくれ」
ホテルを出て車に乗り込むと、後部座席からその声が届いた。
「……了解」
与志人は背後に了承を戻すと車のエンジンをかけた。
螢に向かうように指示されたのは車で十分ほどの場所にある元、燐是公園。二十年前にこの街を襲った変化の大元が今もその場所に存在している。
フロントガラス越しに見える景色は、先程よりも陰鬱な灰色を増していた。
今から行く場所を畏れている訳ではないが、決していい気分がする場所ではないと与志人は感じている。実際初めて訪れた時はその日一日ありもしないにおいと気配に振り回された。今はそこまでではないが、行く度に何かを背負って帰っているような不安はある。
「大倉さん、道が違っています」
助手席から水餓の声が届き、与志人は前方の景色に意識を戻した。
見れば確かに彼女の言うとおり、左折しなければならない角を通り過ぎてしまっていたようだった。無人の三車線道路を大きくUターンすると、与志人は隣と背後に声を向けた。
「悪い、ちょっと考えごとをしてた」
「は? 考えごとだ? もしかして彼女のことでも考えてたか? そういやお前、丸菱デパートの紳士服売り場のあの彼女とはもう仲直りしたのか?」
だが背後からはそのような言葉が戻る。無論考えていたのは別のことだが、今の言葉は聞き捨てならなかった。
「……螢、一体お前何のことを言ってる……?」
「確か誕生日を忘れたんだっけ? ケンカの理由」
「だからなぜお前が彼女のことを知ってる?」
「なぜかって? そんなのお前の携帯のメール履歴を見たからだよ」
戻る言葉には当然と言わんばかりの色しかない。悪びれもしないその態度には返す言葉もなかった。
ルームミラーを覗いてみるが、そこには今の言葉を肯定する表情しかない。抜け目ないこの相手の前に不用意に携帯電話を放置した覚えはなく、いつの間に覗き見たのか疑問が過ぎるがそれを訊ねてもまともに返す相手でもなかった。
「螢……一応注意しておくが、人のものを勝手に見るな。それにあの彼女とはもうとっくに終わってる……」
「何だそれ。まったくお前はもったいないことをするな。でもおれはなぜお前が毎度女性と長続きしないか、その理由を知っている。お前は全然マメじゃない。それに外見にも気を遣わなさすぎる。確かに土台はいいかもしれない。だけど何だ? そのいつも同じのくたびれたスーツ、髪の手入れもいい加減、髭もちゃんと剃ってない。今回の彼女に限らず、改善しない状況に呆れ果てて去っていく女性側の気持ちが、おれにだってよく分かるよ」
背に突き刺さる言葉には何とも言えない気分を味わわされる。
自分がマメでないことも洒落た部分がないことも、紳士服売り場の彼女の方から結局別れを告げられ、たった八ヶ月で別れたことも事実ではあったが、自分にも不備があったその自覚は確かにある。それを敢えてちくりちくりと責め立てられれば、過ぎたはずの反省と後悔が蘇るだけだった。
折れる心を立て直しつつ戻った車は、枯れた街路樹が立ち並ぶ大通りに入っていた。
進むほどに、周囲を覆う灰色の霧が濃くなっていく。
この先にある元、燐是公園はかつて街の中心で憩いの場として存在していた。しかし二十年後の今では、忌むべき地となっている。
美しい緑を繁らせていた木々は枯れ果て、逃れられず息絶えた小動物の干涸らびた死骸が至る所に散見される。時折吹くぬるい風が、腐敗した落ち葉や吹き溜まりの塵を地面に滑らせる寒々とした光景が続いていた。
「ちょっと様子を見てくる。二人はここで待っててくれ」
与志人が元駐車場に停車させると、螢は車を降りた。辺りの霧はこの先一層濃さを増し、車で進めるのはここまでだった。
助手席では水餓が目を閉じている。彼女はここに来る度酷くつらそうな表情を見せる。その彼女を見遣って、「すぐ戻る」と告げた螢を与志人は呼び止めていた。
「待ってくれ、螢、今日は俺も行く」
「別に構わないが、行ってもろくでもないものしかないのは分かってるか?」
「ああ、それでも行くよ」
与志人も車を降りると、螢と歩き始めた。
元駐車場を横切り、元遊歩道を辿って行き着くのは公園の元広場。駐車場から僅か数メートルの場所だが周辺は濃い霧に囲まれ、空気はより重くなる。
螢が立ち止まったのを見て、与志人も足を止めた。
一帯を覆うこの灰色の霧が湧き出しているのは、街の繁栄を象徴するエクスペリエンスタワーがあった場所。
白い鉄骨が美しく絡み合い、公園の中心で天高くそびえていたタワーは今は土台部分しか見ることができない。上部は霧に遮られ、今もそこにあるのかさえ分からない。
唯一目視可能な四つの脚部に囲まれた塔の真下、石畳が地中から砕かれた様相が今も残るその地面には、底が存在するかも分からない暗い穴の痕跡が残っていた。
「おれはもっと傍に行ってみる。与志人はここにいてくれ」
与志人が頷くと、少年は霧の中に消える。
この霧が今も漏れ出す〝穴〟。
この穴の存在こそが、燐是地区をこのようにした原因だった。
二十年前、突如開いたこの穴。穴の中に何があるか誰も知らない。穴がどこに繋がっているかも分からない。しかし穴から漏れ出す霧によって〝よくないもの〟が拡散されているのは確かだった。
穴から溢れた霧はこの燐是の街を昏いものに変貌させ、暗澹たる空気は多くの人々を街から立ち去らせた。だがそんな目に見える変化だけでなく、この霧は都市の暗い部分に存在するものに触りをもたらし続けていた。
たとえば人が持つ負の心、土地などに存在する穢れ、この霧はそれらを増長させ、膨張させる。もし対象が人ならば心の隙に入り込み、その人間を迷わせ、狂わせ、今回のような陰惨極まりない事件を引き起こす種となる。
穴が開いた当時、与志人はまだ子供だった。けれど世間が不安と畏れに呑まれた状態にあったのは覚えている。
二十年前のこの出来事を収めたのが、螢の先代である地堂
『お前誰だ?』
初めてホテルを訪れた五ヶ月前のあの日、少年は薬品のにおい漂う暗い寝室で死ぬほど訝しげな目でこちらを見上げていた。
『わたしは起こすことができません』
少女に促され、困惑しながら開けた扉の先。そこにいた十代半ばの少年の存在により困惑したことを与志人は今でも覚えている。
それでも与えられた指示どおりに二人の元を訪れ続け、この五ヶ月の間に四つの案件を持ち込んだ。戸惑いと疑いを持ちながらも彼らに関わり、全てが終わった後には毎度信じなければならない事実だけが残されていた。
地堂螢には常人には見えないものが見える。死人が最後に身につけていたものから生前の断片を感知することができる。それらは代々地堂家を継ぐ男子だけに受け継がれるものであるらしく、この世に彷徨う、いてはいけないものを在るべき場所に送り出すことを目的とする家業とも深く関わっていた。
『罪深きわたしに贖罪を、彷徨う魂に一縷の光を望む』
与志人は螢のその言葉を四つの事件の内二つ、聞くことになった。
禍々しい気配を消し去るその儀式。それは神々しいものでもなく、身を震わすカタルシスもなく、酷く淡々とした儀式だった。
硬質な声を放つその横顔を目にする度、家業を望んで続けているようにも見えないが、続けないという選択肢もそこにはないようにも思う。
赴任時に開示された経歴資料から、与志人は地堂螢という人間をある程度知ることはできた。
でもそれ以外にこの五ヶ月で知り得たこともある。
口が悪く、辛辣。得意とするのはふざけた虚言と人を煙に巻く行為。正直いい印象は少ないがこの数ヶ月で関わった案件、それに過去に関わった案件の中で彼が仕事を請けもせずに断ったことや、途中放棄した記録が一つもないこともまた、知り得た事実だった。
「与志人」
その声に顔を上げると、いつの間にか螢が戻っていた。彼は身にまとわりついたにおいを手で払うようにするとこちらを見上げた。
「もういい、行こう」
「……何か、変化はあったのか?」
「いいや、何も変わらない。今も臭くて真っ暗な穴があるだけだ」
窺い見せた横顔には疲労が掠める。
灰色の霧の中、同じ場所に立つ相手が少し遠くにいるようにも感じた。
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