3.仕事仲間の『少年』

「どうぞ、大倉さん」

「ありがとう、水餓」

 温かい紅茶が目の前に置かれ、同時に薄荷の匂いが微かに香った。

 彼女がつけているそれは時折艶めかしく漂う。そんな時はいつも黒い服の中で唯一赤いタイが彼女の口元とリンクして、与志人はこの年下の美しい少女をまっすぐに見られなくなる。

「与志人、彼女に色目を使うな。もしおれが警官だったら即刻淫行と猥褻罪で逮捕だな」

 その声がテーブルの向こうから届く。まるで心内を読まれたかのようなその言葉に少々の焦りを感じながら与志人は相手を見遣った。

「べ、別に色目なんか使ってない、俺はただ……」

「冗談だ、いちいち本気にするな」


 相手はそう続けてにやりと笑う。

 やや小柄な身体に長めの前髪。五ヶ月前から与志人の『仕事仲間』となったその少年、地堂螢は再度の笑みを浮かべながら手にしたサンドイッチを頬張った。

「冗談って……随分悪い冗談だな」

「今更いい大人が清廉潔白って訳でもない。所謂テキトーな冗談だろ」

「できることなら俺はいつも清廉潔白でありたいと思ってるよ」

「いつもねぇ……それは警官だからか?」

「まぁ、そうだな」

「そんなの堅苦しい、息苦しい、つまんねぇ、人生は一度しかないのに遊びがない、そう思わないか?」

「俺は別に堅苦しいとも息苦しいとも思ってないよ」

「ふーん、それならおれは与志人のその逆を行くとするよ。ああ! マジで自堕落最高! 不摂生最高!」

「……まぁ何をしようが螢の人生だ。好きなようにやっても誰も文句は言わないよ。それじゃ早速だけど、案件番号二二七。これは三日前、十二区中里見なかざとみで確認された。被害者は……」

「あのさぁ与志人、おれを見てて分かんない? 今、朝メシ中なんだけど」

「朝メシ?」


 その言葉に与志人は改めて腕時計に目を落とした。

 時刻はもうじき十一時、既に朝食より昼食の時間と言ってよかった。その意を込めて見返すと、相手は食べかけのサンドイッチをなぜだか得意げに掲げてくる。それはよく見れば与志人も知る、相馬デリの生ハムサンドだった。

 両腕に刻まれたタトゥーが勇ましいイタリア人ハーフの男が長年営むその店は、このホテルの近くにある。価格は近辺では当然の高額ではあるが味に間違いはなく、それを思い出せば腹が微かにぐぅと鳴った。


「ああ、食事中なのはよく分かったが、話は食べながらでも聞けるだろ?」

「あのな、食べながらだとかどうとか、そんなのはできるできないの問題じゃない。メシはメシ、仕事は仕事。分けて考えるのが当然だ。大体お前はその辺りが無粋なんだよ、それじゃうまいものも不味くなる」

 言いながら再び掲げるサンドイッチからは、スライスオリーブがはみ出している。滲み出た唾と反論は飲み込むことにし、与志人は仕方なく手にした書類を一旦手放した。

「分かったよ。それじゃ食事が終わるまで待ってるよ」

「何だ、できるんだったら最初からそうしろよ。大体四十九課なんて日陰よりも更に下の闇みたいな部署だ。汗水垂らして働いたって所詮下の下扱いは変わらない」

「うるさいな、それはお前の認識だろ? 俺は自分の待遇にはそれなりに満足してるよ。ほら、もう余計なこと喋ってないで早く食え」

「はいはい、分かりましたよ、大倉刑事。こうやっておれみたいな下の下の小市民は、ささやかな食事の愉しみすらも奪われるばっかりだ。権力に万歳だな、国家権力様」


 急かすと相手はサンドイッチ片手に揶揄混じりの敬礼をして見せる。その姿には色々言いたくもなるが、言い分全てが間違っている訳でもない。

「まぁ心配するなよ、与志人。おれの先代が二十年前にあんたらと協力するって決めたんだ。おれはいい後継者だからそれに従う。これを食ったらちゃんと仕事はするさ、多分な」

「多分……ね」

「ああ、その顔、憮然としてるねぇ。だけどおれはお前より一つ年上だって言ってるだろ、与志人。この業界だっておれの方が長い。お前はおれよりずっと背が高くてがたいがいい。けどお前がおれに勝ってるのはそれだけなんだよ。だからそんな顔すんな」


 与志人はティーカップから立ちのぼる湯気を無言で眺めていた。

 この少年は毎回仕事の度に訪れる相手を呼び捨てにし、自分は一つ年上だとからかう。与志人としては既に彼を仕事仲間であると認識し、未だ十分の一も読み切れずにいるキャビネットの書類から、この業界が長いというそれが偽りでないのも分かっている。

 だが十近くも年下に見えるこの少年が年上などと思えるはずもなく、大して笑える訳でもないその冗談にはもう愛想笑いも出ない。しかしそう思いながらも、それを馬鹿らしいと一蹴できずにいるのも確かだった。

「なぁ与志人、もう食った。さっきの話、続ければ?」

 ティーカップをテーブルに戻した螢は目前の相手を眺めていた。

 顔色の悪い童顔、長めの前髪も病的な印象を抱かせるが、その目はいつも抜け目なく光っている。与志人は再び書類を手に取ると、その内容を読み上げていった。


「案件番号二二七。今回の事件が発生したのは三日前、遺体が発見されたのは見無みなし川の河川敷。被害者は女性。当初は身元不明だったが、現在は指紋と歯形、両親から失踪届が出されていたことから判明している。被害者の名は戸川とがわ樹里じゅり、大学三年二十一才。今件と同一犯と思われる未解決事件を四件、現時点で確認している。現在判明しているのは遺体に残された体液から犯人の性別が男ということだけだ。捜査対象となる有力な証拠品は今も何も見つかっていない」

「その件がどうしておれのところに?」

「これが現場写真」

 与志人が取り出した写真を渡すと、螢はすぐに顔を顰めた。

「これまでの一、二を争うほどエグいな」


「そんなことができるのは


 言い伝えた言葉はそこにある罪を形容して、そう言い表すこともできた。しかしその意味だけではなかった。

 写真の中の女性は、這え伸びた雑草の上に俯けて横たわっている。

 衣類は身に着けておらず、その身体は腰の部分であり得ない状態で捻られていた。

 まるで濡れた布を絞るように、二度も。

 骨は砕け、肉が切れ、捩れた皮膚は分断される寸前だった。

「これが遺留品」

 与志人は続けてビニール袋に入った片方だけの靴を差し出した。

「随分と生々しいものを持ってきたな」

「これしかない。バッグもなく、被害者が最後に身につけていたのはこれだけだった」

「他の四人は?」

「他の被害者達も同じく衣服も所持品もなかったが、靴すらなかった。遺留品が残っていたのも、遺体がこんな酷い状態で発見されたのも初めてだったが、殺害方法や遺体遺棄に選ばれた場所、被害者達の外見的特徴に一致がある」


 説明を続ける与志人の前で螢は靴を取り出すと、一瞥した。

 靴は絶妙な曲線を醸し出すワインレッドのハイヒール。それは裸身の右足にだけ履いていたものだった。

「分かるか?」

 問いを向けると螢は靴を手に目を閉じる。しばらくの後に口を開いた。

「……白い建物、その前にある裸の女の像の噴水……テーブルの上のペペロンチーノ、暗い部屋の蝋燭の灯り、右の掌のほくろ……誰かのむかつく笑い声……後は……何だ? 紙の匂い?」

 螢の眼球は、閉じた瞼の下で細かく痙攣している。

 彼が発したそれらは関連性のない言葉の群れだった。

 最後を疑問形で終わらせた螢は靴を袋に戻し、再度触れてしまわないよう口を握り取ると今の言葉をまだ書き取っていた相手の前に突き返していた。

「与志人、この件がおれが関わるべき件なのか、おれは少し懐疑的だ。だけどお前を手伝ってやってもいい。おれは勤勉で優しい人間だからな」

 そう言って立ち上がった小柄な少年は、端正な顔でにやりと笑いかける。

 微かな街の光がより翳るこの瞬間、与志人はいつも悪魔と取引している気分になる。

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