2.ホテル・アスターの住人たち
大倉与志人は、そのホテルを見上げた。
新慰東京全六十六区の北東部に位置するここは、六十六区目である燐是。
重厚な西洋建築と石畳が続く景観に、廃油混じりの下水臭が染み込むように漂っている。
周囲に人影は見えないが、物陰には常に何者かの気配を感じることができる。
澱んだ風景に溶け込んだ『ホテル・アスター』は、今日も曇天を背景に自分を見下ろしていた。毎度の溜息を一つつき、与志人は重い扉の先に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ、大倉様」
ロビーを進むとその声が届いた。
見遣ったフロントには珍しく〝しおんさん〟の姿がある。
彼の本当の名を与志人は知らない。それについてはここに常住する与志人の『仕事仲間』曰く、彼自身も自らの名前を忘れてしまっているという。姿を見せない方が多い彼はいたとしても、ただぶつぶつと意味不明な言葉を呟いている。今日は誰に呼ばれた訳でもないのに既にフロントに立ち、そこで定型的な笑顔を見せる彼は、すこぶる機嫌がいいようだった。
「やぁ、しおんさん、元気?」
「はい、もちろんでございます、大倉様。今日は天気もよくていい日になりそうですね」
「そうだね、それじゃ、また」
与志人は当たり障りのない挨拶を交わすと、早々にフロントを離れた。
ここに来るようになって約五ヶ月、与志人はある程度の〝お約束というもの〟を身に着けるに至っていた。
その一つとしてしおんさんには、あまり話しかけてはいけない。話す時も暗い雰囲気や迷う様子で接してはいけない。しおんさんは相手の気配を敏感に察知する。もし彼が対峙する相手の負の感情に触れたとすれば、次第に思考の接続不良を起こし、結果流血の結末を九割方迎えることになる。与志人は三回目の訪問時にそれに遭遇していた。その後も幾度か危うい場面もあったが、五ヶ月後の今ではそれなりに対処できているのではと自負している。
ロビーを離れ、エレベーターホールに到着するとちょうど昇降機が降りてきたところだった。
開いた扉の先には、占い師を思わせる衣装を纏った白髪の老婆が立っていた。
「ふん、お前のような狗など呪われろ」
彼女には毎度の台詞を吐かれ、すれ違い様床に唾を吐き捨てられる。
ミザリーと呼ばれるこの老婆は燐是地区に程近い街の駅裏で、悪名高い占い業を営んでいる。
彼女の機嫌を損ねた記憶はなかったが、出遭えば毎度呪詛の言葉を吐かれるようになっていた。警官嫌いという一因があるのに与志人は薄々気づいているが、自分の『仕事仲間』の存在がその理由に相乗効果をつけているのは間違いなかった。
入れ違いに昇降機に乗り込むと、明らかに放屁したばかりの臭いが充満している。軽く息を止め、与志人は目的階である五階のボタンに手を伸ばした。
エレベーターは軋み音を上げながら上昇し、目的階でより大きく軋んで停止する。
開いた扉の先には、長い廊下が暗い照明の下に続いている。
いつ訪ねても、この街もこの場所も死んだような気配を醸している。
与志人はこのホテルでフロント係もどきの男と今程の老婆、その老婆の孫と思しき小さな子供にしか会ったことがない。しかしこのような場所にあるホテルに居続ける酔狂な人間が彼らや『仕事仲間』の他にそうそういる訳もなく、それ以前に果たして彼らが正当な滞在者であるかも怪しかった。
五○四号室に辿りつくと、与志人は一度足を止めた。いつものようにノックをする前に、五ヶ月前初めてここに来た時を思い返す。
十八才から六年間、与志人はこの国の軍に所属し、任期を終えた後に新慰東京警視庁に籍を置いた。五ヶ月前、配属された防犯部四十九課は自分一人だけの部署だった。
地下二階の窓もない部屋に自分のものと思われる机が一つぽつんと投げ置かれ、壁一面のキャビネットには、あまりにも遠い日付を含む大量の書類が詰め込まれていた。直属の上司となる防犯部部長、
与志人の実質的同僚は警視庁屋内にはいなかった。
与志人の『仕事仲間』は取り残された地区燐是にあるここ『ホテル・アスター』五○四号室にいる一人の少女と一人の少年だった。
「こんにちは、大倉さん」
ノックすると扉が開かれ、黒い服を着た少女が顔を覗かせる。
与志人が知る限りこの少女、水餓はいつもバーテンダーのような出で立ちをしている。
黒いシャツに黒いベスト、タイだけが赤。今日もその認識どおりに彼女は黒ずくめの服で来訪者を出迎えていた。
「新しいお仕事ですか」
「ああ。彼はいる?」
「ええ、もちろんです。どうぞそちらにおかけになってください。今、お茶をお持ちします」
水餓は毎回余計なことは言わず、察しよく立ち回る。口数も少なく、感情を顕すこともほとんどないが、穏やかで聡明な少女であることは既に与志人の認識内にある。
部屋の隅で白磁のポットを傾ける彼女の手にふと目が止まる。その左手は黒革の手袋で覆われていた。決して外すことのないそれから彼女が過去、酷い怪我をしたのではないかと推測はできるが、その真相を敢えて知ろうとする必要性は今もこの先もなかった。
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