一話 女殺皮 ジョサツカワ
1.地堂螢の変わらぬいつもの朝
今日も生きていた。
地堂螢は日々目覚めた時にそう思う。
今朝は枕やシーツに吐血は確認できなかった。薬の力も借りずに眠りに落ちた昨晩、珍しく安眠したのだと彼は思った。
しかしベッドから身を起こすと骨が軋み、肺が鈍痛を訴え、頭痛を起点とした倦怠感が全身を支配する。けれども一番酷い日を十とすれば、今日はたった八。
薬品のにおいが染みついた毛布をはね除けて、螢は冷たい床に降り立った。
「おはよう、水餓」
「……おはよう、螢」
声をかければバーテンダーのような出で立ちの少女が顔を上げる。彼女は咎める表情で午前十時を指す時計に目を遣るが、螢は気にせず寝間着を床に脱ぎ捨てながらバスルームに向かう。
不作法な相手に向けられる視線は当然冷たい。だが何を言っても無駄であることは付き添って既に約九年、彼女は誰よりも承知している。主従関係、あるいは手のかかる同居人とも言える相手が道しるべのように脱ぎ散らかしていく背後で回収して廻ることも、ほぼ習慣と化していた。
「水餓」
「はい」
「おれの裸見たい?」
「別に見たくない」
「そうか? 今年で二十六になる色気絶好調の男の裸だよ」
「それを言ったら、わたしは十才になる」
「それもそうだな、じゃ、残り三年の間には思う?」
「先のことは分からない」
「そっか、それもそうだよな」
螢はバスルームの入り口で最後の一枚を手渡すと、扉に手をかけて伝えた。
「シャワー浴びてる間に
「分かりました」
「オリーブ多めで」
相手は頷くと服をランドリー籠に入れ、部屋を出ていく。遠離る足音を聞き終えた螢は一呼吸置いた後にバスルームの扉を押し開いた。
痩せた、貧弱な身体。
真っ先に目に入る鏡には、顔色の悪い十代半ばの少年が映っている。
弾力のない薄すぎる肉の上には、かさついた皮膚が被さっている。
成長を止めたその顔立ちに舌打ちして順に目線を落としていけば、じきに直視することも可能でなくなる。
九年繰り返される同じ毎日に顔を歪めると、向こう側も同じく顔を歪めた。
「ふざけんな、ばーか」
フザケンナ、バーカ。
吐き捨てるように呟けば向こう側も同じように口を動かす。
古びた鏡はあちこちシミだらけで歪んでいるが、それでも見たくないものを確実に映し出す。
そこにあるものが現実と分かっていても、怒りが沸々と音を立てる。そこにあるものを偽りなく映す鏡というものを粉々にぶち壊したくなる。いっそのこと、この世に存在するそれらを全て叩き割ってやろうかと時に思う。
「なーんてな、そんなのは不可能だし、ひ弱な死に損ないのおれには最初から無理筋でしかないしね」
自らを貶める独り言は、溢れかけた憤怒を毎度消し去ってくれる。
自らを奮い立たせるように出鱈目で滅茶苦茶な鼻唄を歌いながら螢はバスタブに立って、錆びた水栓を捻った。
頭上のシャワー口からは冷たい水が落ちてくる。それを浴びながら長めの髪を乱暴に掻き回した。
落ちる水は毎度の如くいつまで経っても温まってこない。
身体は温まるどころか逆に熱を奪われていく。
顔を上げれば、降りかかる水が待ち構えたように喉の奥に流れ込んだ。げほげほと咳き込めば、足元の排水溝に血が飛ぶ。
慣れた光景、慣れたことのはずなのに立ち眩んで膝から崩れ落ちた。背に降り続ける冷たい水がかさついた肌を伝って、身体の内部奥まで染みていった。
「何、やってんだ……?」
バスタブの底に這い蹲るそのどこまでもみっともない姿に嗤いが漏れ、それがまた新たな嗤いを呼ぶ。
自らが辿った二十五年余りの人生を螢は自虐的に思い返す。
この病んだ身体は紙一重で死に至ることがない。
悪化の一途を辿りもしないが、快方に向かう微かな道筋もない。
この世に生まれ落ちた瞬間から自らを蝕み続けるそれは、地堂家に延々受け継がれる呪いだ。
いくら歳を重ねても十五の時から姿形が変わらずにいるこのおぞましい現実も同じく、呪いだ。
それを解くために先代も先々代も、そのまた以前の誰かも同じ道を辿ってきた。
この世に彷徨う、いてはいけないものを在るべき場所に送り出すこと。
それを続けることが地堂家にかけられた呪いを解く唯一の方法だった。
そうすることは何者かへの贖罪なのか、生きることと引き替えに与えられた枷なのか。
先代も先々代もそのまた前の誰かも、それから逃れようと命が潰えるその日まで人生を捧げてきた。でも今も自分が彼らと同じ道を辿っているのは、それだけの時を経ても呪いを満足させることができなかったからだ。
いつかこの運命から解放される日を夢見ていた時期もある。だが呪いが解けたところでどのように解けるかも分からない。たとえ解けたとしても、明くる日から魔法が消えたようにまともな人生が自分を待っているはずもない。そんな都合のいい展開が許されるとすれば、それはお伽噺の中だけだ。
希望など持つな。
呪いなど解けないと思う方が楽だ。
風前の灯火のような自分の命が終える方が先だと思う方が楽だ。
望みを持つから、失望もある。
全く見えないそれに縋り続けるのは愚鈍な行為でしかない。
「このおれに……一体何ができるって?」
垂れ落ちた血混じりの涎が渦巻きながら排水溝に流れていく。
ようやくぬるくなり始めた水が、涙に似せて頬を伝う。
けれど本当の涙など出ない。
それこそが愚鈍だと螢は知っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます