9.道の終わり/ことの始まり
失くしたものを取り戻せば、全てがよくなると思っていた。
分からないことはただ不安に繋がる。
漠然とした空間に放り出された感触は、そうなった者にしか分からない。
取り戻した失くしたもの。
ようやくそれを間近に感じても、やって来たのは新たな混乱だった。
彼は黒い服の少年と少女の後を追っていた。
寒々とした無人の街は、陽が傾くとよりその感触を増していた。
早くも街灯が暗い明かりを灯す。
先を行く二人の影が遠くなり、薄くなる。
二人の行く冷たい石畳の道は、追憶への道だ。
必死に二人の影を追う脳裏で、彼は綻びかけた記憶の錠が重い音を立てて開こうとするのを感じていた。
ぼくは……。
今朝、自分のアパートを出た時から時間は遡る。
ぼ、ぼくは……。
睡眠時間も起きている時間も不規則な不健康な毎日。ハイエナのように他人の裏側を漁り、情報を得るためにはどんな手でも使う。
ぼく、じゃない……お、俺は……?
安っぽい香水の匂いとくすんだ札束のにおい。
自分が手に入れたかったのはそれだ。
それのために毎日を生きていた。
俺は……俺の名前は……。
「なぁ、あんた」
螢という名の少年が振り返った。
その傍らには水餓という名の少女もいる。
「これがあんただ」
少年が指し示す地面には死体が転がっていた。
薄寒い路地の奥。
冷えて汚れた石畳の上に、その青黒く変色した死体は横たわっていた。
驚愕が凝固したその死に顔に見覚えがある。
昇降機のくぐもった鏡が映し出していたあの顔。
そこにあるのは自分の、その顔だった。
「お、俺は……」
今まで気づかなかった腐敗臭が漂い、ぶん、と羽音を響かせた一匹の蝿が耳元を掠めていく。
失った記憶の最後尾。
あの時自分は何者かに追われ、それから逃れるためにいつしかこの街に迷い込んでいた。
路地の奥で震えながら身を隠したことは覚えている。
そんな自分の前に突然ふらふらと現れた男。
お……おいお前、持ってるものを出せ……。
一瞥しただけでジャンキーと分かった。
その相手を追い払おうと足元に向けて財布を放り投げたが、それが気に入らなかったのか何が気に障ったのか、男は急に奇声を上げて飛びかかってきた。
気がつくと、相手は叫びながら走り去っていた。
何事かと思いながら見下ろした自分の胸には、ナイフが刺さっていた。
今、自分と同じ服を着て路地に横たわる死体の左胸には、柄の汚れた細いナイフが突き刺さっている。
そこから湧き出て固まった赤黒い血。
ぼたぼたと滴る音に目を向ければ、今の自分の胸からも同じように血が溢れていた。
「俺は……もう、死んでる……」
シャツに滲む血はあっという間に広がる。
溢れ出る血は両掌を赤く染める。
でも変わったのは景観や環境だけではなかった。
この世とあの世が繋がると噂される
街のどこかから現れ、常に足元に這い寄り続ける灰色をした霧。
澱む河のように秘やかに囁かれ続けるその都市伝説のようなものの真相を、今間近に感じている。それには身も凍る怖れを抱くが、既に自分はそれらと同じものと化している。
旅の道行きは暗いだろうが達者でな。
老婆のあの言葉。
怯えた目の子供。自分の前には置かれなかった水のコップ。
そして恐らく全てを最初から知っていたであろう黒衣の二人。
茫然と立ち尽くす相手を少年は見ていた。
そこには嘲りも、憐れみもない。
薄い唇が開いて、昏い言葉が紡がれた。
罪深きわたしに贖罪を、彷徨う魂に一縷の光を望む。
痛みはあったのだろうかと、彼はあの時を思う。
今の自分にそれは感じない。
しかし少年の発した言葉は痛みだけでなく、思考をも剥ぎ取っていった。
「ま、待ってくれ、お、俺は……」
消えゆく意識の中で彼は必死に思考を巡らす。
上着の中にずっと隠し続けたあの大事なものを、必ず、誰かに渡さ、なければ……。
「ち、地堂螢……あ、あんたは……」
発する声は途絶えた。
それでも最後の思いで指先で胸元をなぞる。
けれど既にその力は脆弱すぎて、それが果たせたかどうか分からない。
指先から消えゆく自分は、どこに向かうのだろうと彼は思った。
それは最後の思考。
白々とした空白に填め込まれるように得た最後の真実。
ここから向こうは、何もない、
無なのだ。
******
ベルトにつけたバッジとホルスターの銃が、暗い街灯の下で鈍く光っている。
夕刻、
『死体を見つけた。何とかしろ』
相変わらずの調子でかかってきた電話は、それだけを伝えて切れていた。詳細を伝える丁寧なメールは後に送られてきたが、それは電話をかけた当人ではなく彼女が送信したものだとすぐに分かった。段取りを整え、伝えられた場所に来てみれば、望まぬ情報どおりに一人の男の遺体が横たわっていた。
「俺、殺人課じゃないんだけど」
与志人は呟くが、たとえ殺人課でもこれからやるべきことは変わらない。
燐是地区で発生した殺人及び事件は表向きはどうあれ、そのほとんどが捜査されることなく黙殺されている。従って誰がモルグに遺体を運ぶ手続きをしようと今後に影響はない。
遺体の傍らには男のものと思われる焦げ茶色の財布が捨てられていた。当然のように中はカラで小銭さえも抜かれていた。
「
財布に残された運転免許証には男の写真と並んでその名があった。同じく残された数枚の名刺には、ルポライターと肩書きされていた。
「こんな場所に、碌な話の種は落ちてないと思うけどな……」
再び呟くが、その目は男の上着から覗くあるものに止まっていた。所々皺になったそれはどこにでもある茶封筒のようだった。取り出したペンで上着を捲って確かめると、ミミズがのたくったような赤黒く掠れた文字が見える。指で書いた血文字とじきに気づくが、宛名を読み取ると同時に「あの、馬鹿」と漏れた。
「すみませーん大倉刑事、遅れまして」
その声が路地の入り口から響いた。与志人は慌てて立ち上がると、何事もなかったように相手に向き直った。
「すみません、すみません、本当にお待たせしちゃって申し訳ないです」
「いいや、全然大丈夫、充分早い方だよ」
「実は私、ここに来るのがちょっと苦手なんですよね。早く片づけたいって気持ちはもちろんあるんですけど、近づけば近づくほど毎回足が重くなって……」
「分かるよ」
再度謝りながら傍に立ったモルグ職員は
「大倉さんはもうここに慣れた感じがしますよね。こんな場所で一人で待てるなんて肝が据わってるっていうか。元、軍にいたって聞いてますけどそのせいですかね」
結城は眼鏡をずり上げながら長身の与志人を見上げた。
「いいや、そんなの関係ないよ。それに俺だってまだ五ヶ月だ。慣れてなんかないし、本当は慣れたくもない」
「まぁ、そうですよね」
結城は同意すると運転席にいたもう一人の職員を呼び、散乱した男の持ち物を手際よく回収すると、最後に黒い遺体袋を載せたストレッチャーを車に積み込んだ。
「では私達はもう行きますね。大倉さんもどうかお気をつけて。二十年前以前ならともかく、やっぱりここ、いろんな意味で危ないですから」
「ああ、分かってるよ、お疲れさん」
与志人がサインした書類を戻すと、彼らはいそいそと帰っていった。
モルグのバンが去った後、与志人は薄寒い路地に再び一人きりになった。
足元の石畳には、死体のシミが残っている。
それは日を追うごとに湿った地面と混じり合い、今よりもっとこの地を濁ったものにする。
与志人は微かな溜息を一つつくと、懐から封筒を取り出した。それは先程結城と合流する直前に咄嗟に遺体から奪い取ってしまったものだった。
『ちドうホタルへ』
見下ろした封筒にはそう書かれてある。ひらがなとカタカナが入り混じった酷く乱れた字だが、どうにかそう読める。そこにある『地堂螢』を与志人はよく知っていた。それは今日自分をここに来させた張本人であり、五ヶ月前から『仕事仲間』になった相手でもある。封筒のその中身まで覗き見ることはできなかったが指で触れば十センチ四方の固く、薄っぺらいものが入っているのが分かった。
「でもな……」
与志人は溜息混じりの呟きを零した。
たとえ宛名が知る人間だろうと遺体から所有物を持ち去ったことが正しいかと言えば、そうは言えなかった。けれど普通の人間なら、いろんな意味で近づくことをしないこの地区にまで足を運んで男が渡したかったもの。それはこんな安い茶封筒に入れられて、その当人に気づかれることもしなかった。それにあのままなら今後この封筒は誰の手にも渡らない。捜査をしないことと帳尻を合わせるためなのか、この燐是で回収された遺品は一定期間の後に誰の手に渡ることなく廃棄処分されるのが暗黙の決まりとなっていた。
「仕方ない、渡してやるか」
足元にはじきに地面と同化していくシミ。
立ち入りすぎなのは否めないが、これも何かの縁ではないかと思う。
このように言えば小憎たらしい顔を見せる少年の表情と、足元のシミを交互に思い出しながら、与志人は灰色の街から帰路についていた。
〈零話 暗来客アンライキャク 了〉
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