8.灰色の空 灰色の街
人は何かを求めながら生きている。
自分もきっとそうだった。それは一体何だったのだろう。
この街で失くしたそれを今、自分は前を歩く少年の背に求め続けている。
「あの……」
呼び止めた声には、少年より早く隣の少女が振り返った。
鬱々とした灰色の空の下には、どこまでも続く灰色の街が広がっている。
陽は傾き、時間だけが過ぎていく。
終わりのない形のない不安に、彼は止めどなく襲われていた。
黒い服を着た二人はひたすら前を歩いていくだけで、いつまで経っても自分の持つ問題を解決してくれるようには見えてこない。
灰色の街を永遠に歩き続けなければならない刑罰を受けているようだった。
「螢」
少女の声に少年がようやく足を止める。
「何だよ?」
「彼が説明を求めてる」
「説明? そんなもの必要か? 自分の名前も忘れてる阿呆だ。口で言ったって分からない」
少女は彼の心情をそれなりに汲み取ってくれていた。
だが少年にそんな素振りは欠片も見えない。
『自分の名前も忘れてる阿呆』
その言葉は彼の中にある一線を越えていた。
口が悪いのもいい、酷い扱いも酷い冗談もいい、そう思っていた。
しかし力になると言った言葉を信じても、現状は何も変わっていない。
感じ始めた焦燥はもう身体中を埋め尽くしている。大人しく従っているのにこの扱い。
振り返ってみれば十以上も年下の少年に振り回され、小馬鹿にされ続け、無意味な時間を経過させる自分が、今もこの冷たい路上にいるだけだ。
「今の阿呆って言葉、それってぼくのことを言ってるんですか?」
多くの感情は薄れようとしていたが、その全てが消え去った訳ではなかった。
彼の中で忘れ去られようとしていた感情、〝怒り〟が身の底から呼び覚まさせられていた。
「何だって?」
「今のぼくの声、聞こえてましたよね? そうやって聞こえないふりをするのはやめてくれませんか? 本当は全部聞こえてますよね?」
こちらの怒りにも気づかぬ相手の声は感情をより昂ぶらせる。
挑発的な態度に相手はようやく異なる表情を見せるが、それすらも彼の怒りに新たな燃料を投下したにすぎない。
冷静さなど、とうに欠いていた。
相手の表情が、こちらを嘲笑っているようにしか見えなかった。
彼は怒濤の如く感情を走らせる。こいつは一体どこまで人を馬鹿にするつもりなんだろう? でもこんな人間を自分はよく知っている。相手を見下ろし、見下し、蔑むことで優越を感じる類の人間だ。
握った拳が力を増す。そこへと憎悪の感情が濁流のように流れ込んでいくことを心地よいとさえ思う。ぎりぎり引っかかっていただけの最後の箍も消え失せていた。
「今の阿呆っていうのがぼくのことかって訊いてるんですよ! おい、お前、分かってんのか!」
「何だ、そんなことかよ、おっさん。そうだよ、お前のことだ、他に誰がいるんだよ。ここにいるのは名無しの阿呆だ」
再び荒げた声。それに迷いもなく発せられた淡々とした返答。全身の血が逆流し、身体が酷く熱を持つのが分かった。
強い怒り。忘れかけていたその感情が完全に目を覚ましていた。そしてその怒りと共に霞み続けていたものが記憶のひび割れから蘇っていた。
それは、暴力の記憶。
誰かを痛めつける記憶。誰かに痛めつけられる記憶。バラバラのそれらは切り抜きのコラージュのように廻る。
様々な記憶の欠片だったが、その全ての中心にいるのは〝自分自身〟だった。
頭が割れるように痛む。
その痛みに急かされ、喉から言葉が溢れ出す。
それを躊躇うことなく、相手に叩きつけていた。
「君こそ一体何なんだ! 偉そうな口を利いて! 年下だからと大目に見ていた。でもこんなことなら、ぼくのために働くというその言葉を信じるんじゃなかった!」
「そっちこそ偉そうに。突然やって来て請うたのはあんただ。その傲慢な口の利き方。あんたという人間が垣間見えたな、名無しのおっさん」
見境なく発露した怒りは、急速に後悔へと変わる。
安易な感情に流された自分を愚かだと彼は思った。相手は自分より十以上も年下の少年なのだ。
だが振り上げた手は感情を超え、止められなかった。
怒りに任せ、振り下ろした右手に衝撃が走る。
その手は空中で止まっていた。
手首を掴み、愚かな暴威を止めたのは水餓の手だった。
「やめてください」
間近で響いたその声とぞっとするような殺気に肌が粟立った。
ぎりぎりと手首を締めつける力に、尋常でないものを感じる。
薄荷の匂いの中になぜだか腐臭が漂う。細い指に込められた内からこもるその力は、相手の手首を握り潰すことなど容易だと思わせた。
「もういい、水餓」
その声を合図に力は緩んだ。息もできない緊張から解放された身体は、力なく地面にへたり込む。
見上げれば、少年が見下ろしていた。
彼はそこに優越があると思っていた。
しかしそこにあったのはそれではなかった。
「なぁ、あんた」
少年は屈み込むと、目線を合わせる。
若く、端正ではあるが、青白さを増した肌には蓄積した疲労が浮き上がっている。
年若い少年には見えるはずもない、程遠いものがそこにはある。
大人なのか子供なのか、ちっとも分からない。
彼の脳裏にフロント係の言葉が蘇る。あれは戯れ言ではなかったのだろうかと思えば、発する言葉は浮かばなかった。
「あんたは自分のことが知りたい。おれはあんたを助ける。あんたはおれにじゃなく、ここから逃れる別の選択ができるが、おれにはできない。おれにはこうするしか道がない」
「道が、ない……?」
「いや、これはおれの問題だった。あんたが理解しなくていいことだった。混乱させて悪かったな」
少年は手を差し出す。彼は何も言わず、その手を掴んで立ち上がった。
無言の少年と少女は再び前を歩き始める。
彼はその後を追いながら、先程掴んだ手が死人のように冷たかったことを心に感じていた。
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