7.洋食屋不二軒

 湿った石畳の歩道は、彼の靴底を再び冷えさせていた。


不二軒ふじけんはまだやってるかな」

「やってると思う。まだ午後二時だから」

「そうじゃなく、あそこの強欲じじいがまだ生きてるかってことだよ」

「……それなら生きています。先月は体調を崩して休んでいたようですけど」

「あー、いつくたばんのかな、あのじじい」

「わたしは螢が満足するまで、ずっと食べさせてくれると思う」

「ふん、そんなの分かってる」


 口の減らない弟とそれを諭す姉。

 先を歩く二人の姿を見て、彼はそのような印象を持っていた。

 目前のその光景と重ねて思い出すのは、先程のホテルでの出来事。あの子供は水餓に触れられた時、異常なまでに怯えていた。だが今思えばその怯えの中には微かな〝蔑み〟も入り混じっていた。

 聡明にも見える水餓に向けられたその感情の理由は思いつかず、不可思議にも感じる。しかしもし螢がそんな感情から水餓を庇おうとしてあのような行動を取ったのなら、その手段は決して褒められたものではないが、彼女を思いやった末の行動と言えなくもない。

 仕事柄、人の本質を見ることには慣れている。

 ふと、彼はそう思った。


 仕事柄……?

 彼は無意識に零れ出たその言葉に心臓を鷲掴まれていた。

 急いてその足跡を追おうとするが、深い闇を手探っているようで何も掴み取れない。

 自分の仕事とは?

 再度自らに問うが、僅か垣間見えたものは瞬く間に消え去り、舞い上がった記憶の欠片もまた底に沈んでいった。


「おい、あんた。腹は減ってないと思うけど、付き合えよ」

 思い耽った顔を上げると、螢は古びた洋食屋の前で足を止めている。そう告げた後は彼を待つことなく水餓を伴って店の中に入っていった。

 彼が遅れてその洋食屋、『不二軒』に入るとかなり狭小な店内、一番奥のテーブル席に螢と水餓の姿がある。

「そこ、座れば」

 高飛車だが一応席を勧められ、彼が腰を下ろすと三十半ばの女性店員が水の入ったコップを持ってやって来た。彼女は螢、水餓の前に乱暴にそれを置くと、三人目の客の前には何も置かずにぶっきらぼうに口を開いた。


「何にします?」

「ランチ、一つ」

 店員は愛想一つもない顔でテーブルを去ると、厨房に向けて「ランチ一つ」と繰り返した。その後は退屈そうにカウンターに寄りかかって、剥がれかけた紫色のマニキュアをいじっている。

 埃と油で汚れた壁の時計は二時を廻っていて、昼のかき入れ時には過ぎた時間だった。そのせいか客の姿は他にない。でもそう考えてから彼はすぐに思い直していた。このような場所にある飲食店に客が溢れることなど、何時であろうと到底あり得なかった。


「珍しいですね……この場所でまだ店を開いてるなんて」

「こんな場所だからこそやってるんだよ。競争相手が誰もいないんだ。値を吊り上げたって腹が減ってる奴は仕方なくここに来る」

 問うと、隣のテーブルから新聞を取り上げた螢が答える。

 改めて店内を見回してみれば、壁に貼られたメニューはランチととんかつ定食のみ。その値段は七千円、九千円と破格の値段だった。


「ぼろい商売だよ。自分で命さえ守ることができれば、どれだけでも儲けられる。あんたもやってみれば?」

 広げた新聞の陰で螢がにやりと笑うと、テーブルに料理の皿が放り出されるように置かれた。店員は螢をじろりと睨むと、ライスの皿を置いて戻っていった。

 大きめのハンバーグとフライが二つ、程よい量のナポリタンスパゲティとサラダが盛られている。むやみな値段はつけられているが、丁寧に作られたまともな料理に見えた。


「うまそう? あんたも食いたい?」

 フォークを手にした螢が訊ねていた。料理は彩りも美しく、食欲をそそられそうな遅めの昼食にも見えたが、彼はなぜか食べたいと思わなかった。

「いえ、ぼくは結構です……」

「へぇ、これうまいのに、残念だよな」

 螢はそう言うと愉しそうに食事を始めた。

 小一時間前まで二日酔いで苦しんでいたとは思えないほど食欲に満ちた手つきで肉を切り裂き、無駄な動きなく口に運び、その味を堪能する。口の利き方はなってないが、その身のこなしにはやはり育ちのよさが感じられた。


 店の中はBGMもなく、静かだった。時折厨房から食器の擦れ合う音が聞こえてくるだけで、カウンターにいた店員もいつの間にかいなくなっていた。

 少女は目の前の水にも手をつけていない。あの女性店員に汚い身なりが嫌われてしまったのか、自分の前には水すら置かれなかった。

 洋食屋の店内で食事をする少年と、同じ席に着くも何もしていない二人。この妙としか言えない間に早急な喉の渇きを覚えても、水を飲みたいという欲求もまた、食欲と同じく湧いてこなかった。


「あの……水餓さんは、お腹空いてないんですか?」

 彼は間を持たせるように問いかけた。

 実際そうであったが最初から腹が減っていないと決めつけられた自分はともかく、螢は自身の分しかオーダーをしなかった。呼びかけに微か顔を上げた彼女はその返答に惑うような表情を浮かべた。

「水餓はものを食わない、水も飲まない。だから気にするな」

「えっ?」


 質問の答えは彼女からではなく、螢から戻された。

 目を向けると、彼女は再び困惑の表情を見せている。

 食わない、飲まない?

 確かに水餓は日常を感じさせない美少女ではあるが、実際にそんな人間がいる訳はない。

 少年が発した意味不明で奇妙な言葉は、悪すぎる冗談としか思えなかった。

「何ですかそれ? それってぼくのことをからかってるんですよね?」

「そろそろ行くか。ここに長居すると服が油臭くなる」

 少年に問いかけるが、相手は無視して立ち上がった。彼はもう一度水餓の表情を覗き見ようとするが、それは身体の向きを変えた螢に遮られてしまった。


 優雅でありながら怖ろしく早く食事を済ませた螢は上着の内ポケットから折り畳まれた紙幣を取り出し、その内七枚を食べ終えた皿の下に滑り込ませている。

「ごちそうさん」

 奥に声をかけると少年は未だ席に着く相手には目も向けず、店を出ていった。

 テーブルには二つのコップときれいに食べ終えた皿と取り残された男。

 肩を竦める間もなく、彼は再び相手の背を追って冷え冷えとした路上に歩み出ていた。 

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