6.長い廊下の出来事/暗いロビー
出かける。
そう告げた少年に従うように部屋の外に出た。
薄寒い廊下を進むと、埃だらけの飾り棚の陰に一人の子供がしゃがみ込んでいるのが見えた。
彼が隠れんぼを思い出させるその姿に目を遣ると、相手は怯えた表情で視線を逸らす。それでも何かに気づいてその瞳を輝かせた子供は、棚の陰から走り寄ってきた。
「おじちゃん」
それは最初、自分に向けられた言葉だと彼は思った。この中で唯一自分がそう呼ばれるに相応しい。だが親しみを持って輝く瞳は、隣の黒い服の少年に向けられている。
子供は八才ほど。ざんばらの髪に汚れた水色の上下を着て、その顔や身体つきからは男の子なのか女の子なのか分からなかった。
「ああ? おれはおじちゃんじゃねぇって何度も言ってるだろ、クソガキ」
けれど少年が返したその言葉に彼は目を瞠るしかなかった。親しみを込めて駆け寄った子供にそれはないだろうと思うが、相手に意見できる立場でもない。
言い捨てられた子供は萎縮し、小さな身体をより小さくしている。せめてもの思いで憐れみの目を向けてみるが、再び怯えた瞳で見返されただけだった。
「あ、あのね……お祖母ちゃんが一緒にいちゃいけないって」
「ああ、ミザリーにか? まぁ、あの占い婆が言ったってとこはむかつくが、それ自体は間違ってないな」
一旦は黙した子供だったが、おどおどと螢の袖を引きながら上目遣いで見つめる。その声と態度に見え隠れする縋りつくような感情に、彼は同情せずにはいられなかった。
相手にされていないと分かっていてもなお、自分の方を向いてくれるのではないかと期待を捨て切れない。
あの子供と自分は似ている。立場は違うが同じ境遇を感じずにはいられずに、再度哀憐の目を向けてみるが、悲しいかな今度は見向きさえされていなかった。
「じゃあな」
「えっ……もう行くの? あっ、えっと、おじ……ま、待ってよぉ……」
素っ気ない相手を子供は必死な表情で追うが、焦った足がもつれ、その幼く小さな身体は転倒しそうになる。
その身体を咄嗟に支えたのが水餓だった。「大丈夫?」と彼女の穏やかな声が響くが、それと重なるように響き渡ったのは子供の絶叫だった。
「やだっ! いやだっ、お前、触るなっ!」
手を振り払って子供は身を縮め、彼女に怯えた目を向ける。彼はそこに先程自分に向けられたものより色濃いものがあるのを見る。
「
続けて耳に届いたのは、その声と肌を撲つ音だった。
彼はその光景に再び目を瞠るしかなかった。
螢の手は躊躇いなく子供の頭部を
茫然とする彼の前で、子供はそれ以上に茫然としている。だがそれも数秒。顔をくしゃくしゃにさせた子供は嗚咽を上げ始めていた。
「だって、だって、怖かったんだもん……だって、あの人は……」
「だってもクソもねぇよ、望。お前が金魚の糞みたいにおれにくっついてくるのは勝手だが、今度水餓にそんな態度取ったら、その指へし折るからな」
「だって、だって、私、おじちゃんが……」
「おれはおじちゃんじゃねぇって言ってるだろうが」
怒鳴るでもない静かな恫喝は、叩かれたことより子供を黙らせた。
少年は背を向けて先を歩いていく。子供の方を見て、刹那悲しげに表情を曇らせた水餓も言葉が見つからない様子で後に続いていく。
彼の前には、しゃくり上げるような泣き声を上げ始めた子供が取り残されていたが、このまま去ってしまうのは無情だと留まってみても、望という名の少女の瞳は螢の方だけに向き続けていた。
「こらぁ! この糞悪たれがぁ! またうちの孫、泣かしたなぁ!」
その時、嗄れた怒号と共に廊下奥の扉が弾き飛ぶように開いていた。
そこから飛び出た老婆は長い白髪を振り乱しながら駆けてくる。
幾重にも巻かれた首飾りと足元までの派手な色遣いのワンピース。その風貌に見覚えがあるとか、ここの住人だったのかとか、悠長に思い起こす余裕はなかった。鬼気迫るその表情には今度は彼自身が怯えることになった。
「おい、あんた。早く来ないと、あいつにとっ捕まって頭から食われるぞ」
目を向ければ既にエレベーターに乗り込んだ少年が笑っていた。口元では「鬼婆だ」「ホンモノだ」と繰り返している。
それを信じた訳ではなかったが、手に刃物を持たせればあまりにもぴったりな老婆の形相を前に、彼は慌てて昇降機に乗り込んでいた。
******
一人で上ったエレベーターを、今度は三人で下りていた。
上からはまだ老婆の怒鳴り声が響いている。次第に遠くなるその声を聞きながら、彼は鏡が映し出す姿をぼんやりと見ていた。
くたびれた風貌でも、三人の中では自分が一番の体躯をしている。だがこの中で一番背の低い少年は一番堂々と立っていた。そしてその傍らに立つ少女、少年よりも幾分背の高い少女は相手を守るようにそこにいた。
「あの……地堂さん、今からどこに……?」
「そうだな、とりあえず街に出ようか。腹も減ったし」
「え? もしかして食事、ですか……?」
「何だよ、文句あるかよ」
「い、いえ……」
声をかけるもそのような返事が戻り、本当はそんな悠長にしている場合ではないのではと過ぎる。
自分は焦っている。
名前も記憶も失った自分がそのように感じるのは、きっと間違っていないと彼は思う。
感情の起伏は薄れ、代わりに訳の分からない焦りが膨張している。しかしそれよりもっと、時間的な、限られた何かが迫り来る感触があった。
下降するエレベーターは心情と相対しながら下っていく。解決策の分からない不安だけが残るが、今は先を歩く少年の背を追うしかないのは分かっていた。
「よう、しおんさん」
「ああ、地堂さん、こんにちは。お出かけですか?」
ロビーに着いて早々届いた声に、彼は驚きを抑え込むしかなかった。
少年が呼びかけた相手は先程のフロントの男だった。男は少年と話しながらも自分の頭部を包帯でぐるぐる巻きにしている最中で、それでも次から次へと新たな血が滲んでいる。
「もしお出かけになるなら、地堂さんもどうかお気をつけて。わたくしのこの怪我を見てくださいよ。暴漢にでも襲われたんですかねぇ、ふと気づいたらこのざまですよ」
「そうか、それは災難だったな。じゃ」
そう言ってフロントを離れた少年を再び追いながら、彼は不安を感じていた。
怪我の原因が自分ではないと思いたいが、もし自分が関わらなければああはならなかったのかもしれない。男は今はまともな会話ができる状態にあるようだった。今更追求される事態は想像したくないが、そうならないとも言い切れない。
「あの……すみません地堂さん。ぼく、実はさっきあの人と話をしたんです。それで、あの……あの人が怪我したのは、もしかしてぼくのせいなんじゃないかと考えてしまって……」
「ああ?」
声をかけると少年は足を止め、面倒そうに振り返る。そして目の前の狼狽とフロントの男を順に見ると、「じゃ、そうなんじゃねぇの」と気がなさそうに答えた。
「それじゃ、あの、ぼく、どう言ったら分からないけど、とにかく謝ってきます……あの、しおんさんに……」
「やめとけよ」
彼はフロントに向かおうとしたが、その声に足を止められていた。振り返った場所には少年の冷ややかな表情がある。
「行っても無駄だ。あいつはもうあんたのことなんか覚えてないよ。それにあいつの名前は誰も知らない。多分あいつだって忘れてる。しおんさんっていうのはおれが勝手にそう呼んでるだけだ」
フロントには先程と同じく薄暗い明かりが灯っている。しおんさんはぶつぶつと口の中で何かを呟きながら、何も映さない目で包帯を巻き続けていた。
「……だったらなぜあの人をしおんさんと?」
「このホテルの名がそうだからだ」
向けた質問にそう答え、少年は軋む扉の先へと出ていった。
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