5.地堂螢
「で、何の用?」
窓際の一人掛けソファに座った相手に訊ねられて、彼は戸惑った。
あの老婆の言葉はいつしか自分の中で希望になり、自らに起きた不運な出来事を解決する唯一の方法のように思っていた。
ここにいる相手に会えば、この漠然とした不安から解放される。
そんな思いにかられていた。
しかし目の前の相手からはそれが叶うような気配は感じ取れない。いきなり訪ねてきた見知らぬ相手をただ、怪訝な表情で眺める状態が続いていた。
「おれ、どこかであんたに会ったっけ」
少年は興味なさげに訊ねて、サイドテーブルから取り上げた紅茶を優雅に啜る。
ようやく対面を果たすことのできた地堂螢は、彼にとってその望みを失わせるだけの存在でしかなかった。
「おれはあんたのこと、全く覚えてないけど」
不遜に応える少年に、彼は既に一時間近く待たされていた。
薬品と吐瀉物の臭いを漂わせた少年は寝室を出た後悠々とシャワーを浴び、彼の存在を殊更無視するかのようにゆっくり身支度を整えていた。
まだ具合が悪いのか顔色はよくないが、小作りな顔立ちは少々童顔だが端正である。乱れた寝間着から黒い棒タイを結んだ白いシャツとカスタムメイドらしい黒の上下に着替えた身体は小柄で華奢だが、ある種の威圧感も感じられる。姿勢や立ち振る舞いに育ちのよさも垣間見えるが、言葉遣いは乱暴、十以上は年上の相手に対する態度は決して正しいと言えるものではなかった。
「いえ、多分、会ったことはないと思います……」
言い淀む言葉を返すと、少年は口元を歪めて肩を竦めて見せた。
その小馬鹿にした態度には憤りを顕していいようにも感じたが、彼にそんな気はなぜか湧かなかった。それは大目に見るとかそういったものではなく、ただ奇妙な感覚。自分の感情が段々遠離り、鈍くなっているような感覚だった。
「……ぼくは今日、何らかの理由でこの燐是地区に来たみたいです……けれどそれ以前の記憶もそれ以降の記憶もないのです。ぼくは正直なところとても困っています。これからどうしたらいいのかさっぱり分かりません……そんな状態をどうにかしろと、こんな取り留めもないことを言われても、あなたが困惑するのも分かります。当然です。でもお願いです。教えてくれませんか? あなたはこんなぼくを本当に助けることができるんですか? こんな状況のぼくをどうにかできるんですか? ぼくは、誰でもいい……助けてほしいです……だけどあなたには本当にそれができるんですか……?」
頼りながらも、相手に疑義を抱いている。
酷い状態だと彼は思った。
でも酷いというのはそれだけではない。
目の前の不遜で生意気でひ弱そうなこの少年。
十も年下のこの少年のことを、自分は心のどこかで見下している。
それでもその相手に懇願し続ける己の姿は滑稽だ。だがその滑稽だと自らを嗤う感情もまた、徐々に薄れているようだった。
「さぁ? あんたの願いをおれが叶えられるかは分からない」
少年は不意に立ち上がると、ゆっくりと歩み寄ってくる。
足元に這い寄る暗い影を感じながらも立ち尽くす相手を少年は黒い、抜け目ない瞳で見上げていた。
「だけどあんたのために働いてやってもいい。おれはこの街の誰よりも優しい人間だからな」
長めの前髪を払って笑う黒服の少年は、薄暗がりに立つ悪魔のようにも映る。
しかし今の彼には自らを導く唯一の光だった。
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