4.少女 水餓
歩み入った五〇四号の内部は古いながらもきれいに整えられていた。
毛足の長い絨毯の上には藍色のビロードが張られたソファ、濃茶のローテーブルがある。壁際には大きな本棚と酒瓶が並ぶアンティークキャビネット、煤けた象牙色の暖炉が連なる。恐らくバスルームは右の奥、寝室は左の扉の向こうなのだろうと、彼は一通り部屋を見渡してそう想像した。
もう一度少女に目を向ければ、彼女は部屋の隅で客人のためにお茶を淹れている。その背に彼は問いかけた。
「すみません、あなたが地堂さんなのですか……?」
「いいえ、わたしは違います」
少女は手を止めて向き直ると否定した。
「わたしは
「あ、あるじ……?」
「そうです」
少女は淡々と答えたが、届いた言葉に彼は僅か表情を歪ませた。
先程のフロント係の言葉を信用するなら五〇四号室の地堂こと、地堂螢の歳は二十五、六。そんな年齢の人物が水餓のような美しい少女に主と呼ばせる関係性を想像すれば、自然とろくでもない、と過ぎる。
名から考えれば地堂螢は女性だろうかと彼は思う。それならば多少酌量の余地もあるが地堂螢が女であろうと男であろうと、未だこの街に居を構える事実を踏まえれば、まともな人物であるはずがない。しかしその指摘は、そんな人物を頼ろうとしている自分にも言えることではある。
「そ、それなら、地堂さんは今どこに?」
「寝室です」
再び問うと水餓はソファに座るよう促し、テーブルにティーカップを置いた。続けて砂糖入りの瓶も置くが、彼はその時彼女が手袋をしていることに気づく。疵痕でも隠すためなのか、滑らかな黒革の手袋は左手だけにはめられていた。
「……もしかしてお気に障りましたか?」
「えっ? い、いえ、すっ、すみません……」
手を凝視していたことに気づいたのか、少女が表情を曇らせる。他意はないつもりだったが顔に出ていたのかもしれないと自戒して、彼は謝罪の言葉を向けた。
「き、気を悪くしたならすみません、ぼ、ぼく……」
「こちらこそ失礼しました。気を使っていただいて、優しい方なんですね」
そう告げた水餓が初めて笑みを見せた。
彼女が浮かべたその笑みはこちらの頬を思わず染めさせるほど、とても美しいものだった。見方を変えればある意味冷たさを感じる美貌がやや崩れ、愛らしさが顔を覗かせる。傍に立つ彼女からはふわりと香りが漂う。薄荷を思わせるその香水を彼は少し珍しく思うが、怜悧な表情を持つ彼女には似合っている。
顔貌は少女のように見えるが、身の底には計り知れないものを隠し持っている気配を感じ取る。あの黒い服の下には何を隠し込んでいるのだろうと、彼は密かな想像を巡らせた。彼女の衣服を剥ぎ取っていく自分の姿、そこに現れる透けるような白い肌、シーツの波に漂う薄茶の髪、その場所からこちらを見上げる彼女の表情は……。
「どうかしましたか?」
「いっ、いえ……」
彼は慌てて邪な想像を掻き消した。
相手には何も気取られなかったようだが、今誰かに頭の中を覗かれたらとても平静ではいられない。出会って数分足らずの、しかも十ほども年下の少女にあまりにも卑劣な思いを抱きすぎている。ティーカップから立ち上る湯気に視線を落とすと、彼は先程以上の自戒を繰り返しながら声をかけた。
「そ、それで地堂さんはまだ休んでおられるんですか?」
「ええ、そのようです。ですがもしあなたが起こしてくだされば、わたしは助かります」
「えっ? 起こすって、ぼくが、ですか……?」
「はい。わたしは『起こすな』と言われているので起こせません。あなたはそう言われていないので大丈夫です」
かけられた言葉に彼は戸惑うしかなかった。もちろんこのまま相手が起きるまで待ってもよかったが、それがいつになるか分からないその時間経過に追い立てられるような不安もある。
「わ、分かりました」
「そうですか、ありがとうございます。寝室はそちらです」
彼が了承を伝えると、水餓は先程推測した左の扉を示す。
彼はとりあえず立ち上がったが、妙としか言えないこの状況に躊躇を覚えて動きを止める。でもここでいつまでも悩み続けても詮ないことは分かっていた。自らを奮い立たせながら扉の前に立つと、室内に向けて声をかけた。
「は、入ります……」
一歩踏み込んだ寝室はカーテンが引かれ暗く、漂う薬品のにおいがすぐさま身にまとわりついた。
呼びかけに反応はなかったが、中央にあるベッドに人の気配はある。壁の照明スイッチに手を伸ばしたが点かず、仕方なくそのままベッドまで歩み寄った。
「地堂さん……あの、すみません……」
地堂螢は頭まですっぽりと毛布を被って眠り込んでいるようだった。
現時点でこの人物が男なのか女なのか分からない。
あのフロントの男はきちんとした身なりの上品な優しい人物と言ったが、それと同軸で生意気な糞餓鬼とも称した。今更のように水餓に訊いておけばよかったと後悔するが、既に遅い。二度目の呼びかけにも反応はなく、戻るのは毛布下から漏れ聞こえる鼾だけだった。
「起きてください……あの……お願いします」
彼はもう一度声をかけながら、肩と思しき箇所を揺すってみることにした。しかしそれにも相手は煩わしげに身を捩らせただけで、起きる気配は一向に表れない。
果たしてこんなことがあるだろうか?
彼は苛立ちを次第に覚え始めていた。普通なら二、三度声をかければ反応が戻ってもいいはずだ。「もう少し眠らせてほしい」とか「今、起きるから」とか。
「すみません、地堂さん、起きてください!」
四度目の呼びかけは彼としてはかなり毅然としたものだった。けれどそれにもやはり反応は戻らず、唯一返される鼾にも小馬鹿にされている気にもなり始め、彼は毛布に顔を近づけると五度目となる声を上げていた。
「あの! 起きてください、地堂さん!」
「あー、もうさっきから何度も何度も、うるせぇなぁ」
毛布下からはようやく反応が戻った。
だが届いた声に彼は動きを止める。
ベッド上の相手は自ら毛布を剥ぎ取ると姿を現した。
長めの前髪、不機嫌そうな表情、寝乱れた寝間着の胸元からは骨格が浮き上がった青白い肌が覗いている。
そこにいたのは彼が思い描いていたような人物ではなかった。
その相手はどこから見ても十代半ばの少年の姿をしていた。
「あ、あなたが地堂、螢?」
「うわ。頭、痛てぇ……うえぇ……」
現れた相手は質問に答えず、顔をしかめるとベッド傍のごみ箱に頭を突っ込んで得も言われぬ音を立てながら嘔吐している。
「やっぱ昨日呑みすぎた……うげぇぇぇぇ」
見下ろすその姿に彼は言葉を見つけることができなかった。
十代半ばの年齢に二日酔い。看過できないその状況には呆れるしかなく、言い難い思いが過ぎる。でも今から自分はこの二日酔いのひ弱そうな少年を頼らなければならない。すぐにでも立ち去りたい気持ちも過ぎるが、だからと他の策がある訳でもない。
しばらくすると一通り吐くものを吐き終えた少年は、寝間着の袖で口元を拭いながら疲れた顔を上げた。そんな顔をしたいのはこっちの方だと内心で思いながら、彼は言葉を向けた。
「もう一度訊くけど、君が地堂螢?」
「そうだよ。ところで、あんた誰?」
「え? ぼ、ぼくは……」
「あ、悪ぃ、ちょっと待って。も一回、出そう」
うげぇぇぇぇ。
答える声を遮って、少年は再びごみ箱に顔を埋める。
続く言葉もかける言葉もなく、彼は茫然とその姿を見ているしかなかった。
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