3.五〇四号室

 エレベーターは、上昇距離と時間に違和を感じた。

 上に近づくごとに不安が煽られる。

 昇降機内部に取りつけられたくぐもった鏡は、見知らぬ男を映し出していた。

 汚れた上着にシャツにズボン。思わず見入る乱れた髪と無精髭が伸びたその姿は、健康的な日常を送る者には到底見えなかった。


 これがぼく……。


 淀む記憶、霞み続ける過去。

 彼は自らの顔を知って得た落胆を隠せなかった。

 怪しいフロントの男が言ったとおりに二十代半ばを過ぎた男がそこにいる。そしてその男は見知らぬ相手では決してなく、紛うことなき自分の姿であるのは逃げられない真実だった。


 違和を身に染み込ませる昇降機はいつしか止まり、その静けさが頭上から圧力をかける。

 浸食する現実に重圧を受けながら、彼はひと気のない廊下に足を向けた。

 ようやく辿り着けた五〇四号室の前。

 鬱々とした中途半端な力で二度扉を叩き、彼は反応を待った。

 背後にはノックの音も掻き消すような薄寒い長い廊下が続いている。

 再び痛い沈黙に放り込まれるのかと思い始めた時、扉は静かに開かれた。


「どちら様でしょうか」


 扉の向こうには黒い服を着た少女が立っていた。

 歳の頃は十七、八。シャツに黒いベストというバーテンダーのような出で立ちだがシャツも黒で、きっちり隙なく締めたタイだけが深紅だった。血の気が引いたようではあるが目鼻立ちの整った相貌、薄茶の髪が僅かなふくらみを持つ胸元で揺れている。

 その美しい立ち姿に知らぬ間に見入っていた彼は、慌てて言うべき言葉を取り戻そうとしながら口を開こうとした。

 けれどもすぐにそれがないのだと気づく。


 どちら様と訊かれても分からなかった。

 自らの顔すら忘れてしまっていた自分。

 自分の名前も、自分がどんな人間であるかも、自分が一体どこから来たかも、何も分からなかった。

 残っているのは断片的な曖昧な記憶。

 それらを全て繋ぎ合わせても、自分というかたちは見えてこない。

 この街の概要を覚えていたのは、記憶を失くす直前にいたからか。でもそれすらも真相と言うべき確かなものは何もない。

 記憶は淀み、過去は霞み続けている。

 自分には自分に関する記憶がない。

 それがあるべき場所には、空虚な空白が広がるだけだった。


「すみません……ぼくは自分の名前が思い出せない。だからすみません、名乗ることはできません……おかしいとお思いでしょうが気づいたらこの街にいて、自分がどこから来たのかも分からないんです。けれど先程出会ったお婆さんに、この部屋にいる地堂さんを訪ねれば助けてくれると教えてもらいました。それでぼくはここに来ました。あの……本当にぼくを助けてくれますか……?」

 零れる言葉には懇願にも似たものが混じり込む。

『きっとあんたみたいな人間の悩みを解決してくれるだろうよ』

 彼は今初めて、戯れ言と吐き捨てようとした言葉に心底縋りついていた自分に気づいていた。


 しかし同時にもう一つのことにも気づく。

 目の前には少女の冷めた無表情がある。

 思い直せばここににあるのは、名も思い出せない見知らぬ男が訪ねてきた避けられるべき現状。今更のようにそれに気づかせられれば先程知った己の姿も蘇り、この手前勝手な言葉も、ここに立つ自分のその存在さえも、急激に居たたまれないものへとなり変わっていた。


「す、すみません。やっぱりおかしいですよね。突然知らない奴にこんなことを言われても……」

 彼は記憶に僅かに残る、父親に叱責された子供のような気分になる。

 思えばこんな取り留めない言葉が受け入れられると考えていたこと自体が恥ずかしく、相手の視線を避ける思いで深く項垂れた。

「本当にすみませんでした……」

 彼は告げると少女に背を向けた。

 悔恨を繰り返しながら歩き始めれば、自らの近い未来が脳裏に過ぎる。

 これからこの薄寒い廊下を戻ることになる。現実を映し込むエレベーターに乗り、不気味なロビーを通り、再び湿った暗い街に出ていく。

 そして一体、どこへ行けば?


「あの、待ってください」

 背後で響いた声が彼の足を止めた。

 振り返った先には、今の言葉を言い伝えた美貌の少女の姿がある。その言葉は待っていたとしても、望むだけ無駄だと思っていた言葉だった。


「帰らないでください。訪ねてこられたのですよね」

「ええ、ですが……」

「ではどうぞ、お入りください」

「お入りくださいって……ほ、本当にいいんですか?」

 上擦った言葉に少女は「はい」と頷き、一歩下がって部屋に入るよう促している。今にも溢れそうになる安堵の笑みを堪えながら、彼はどうにか礼を述べると扉向こうに足を進めた。

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