2.ホテル・アスター

 一見いちげんの客を阻むような重厚な木造りの扉を抜ければ、天井の低い薄暗いロビーがある。

 そこには客の姿も従業員の姿もない。仄暗い照明が灯るフロントに向かってみるが、その場所も無人だった。


「……すみません、誰か、いますか?」

 薄闇に呼びかけるも、応答はない。続けて錆びついた呼び出しベルに手を伸ばすが、音すらも鳴らなかった。

 一応明かりが灯されているのを見れば誰かがいるとは思うが、もしかしてここはただの廃墟で、自分はあの老婆に担がれただけではと再び過ぎる。

 ホテル内部は静寂に包まれ、空調の音もしなかった。見上げたフロントの照明は幾重にもなる蜘蛛の巣に絡み取られ、埃の降り積もったカウンターには幾つかの手形と、粘着性のある赤茶けたシミが放射状に散っていた。


 見渡したロビーには丁寧に造り上げられたゴシック風調度品が並べられている。それらは眺める者もいないこの場所で、永遠に誰かを待ち侘びているようにも見えた。

 ここに存在しているのはかつてはそうであったものでしかない。

 この建物だけでなく、六十六区から切り離された存在であるこの区全てが全てから取り残されていた。もしかしたらそこにあったかもしれない良きものはとうの昔に消え去り、ここに残され、存在するものは何もかもが古びていて常に湿っていた。


「お客様! 大っ変! お待たせ致しました!」


 突然響いた大声に彼は悲鳴を上げそうになった。

 怯えながら振り返った先には、五十代半ばの男が立っている。臙脂色の制服を着たフロント係と思しきその男は、カウンター向こうでにこやかに笑っていた。


「いらっしゃいませようこそ! お客様! ご宿泊ですか?」

「え、はい、あの……ぼくは、その……」

「はい!」

「あの……ぼくはここの五〇四号室にいる地堂さんという方に会いたくて来たんですが……」

「五〇四号室、地堂様!」

「は、はい、そうです……それでその地堂さんは今……」

「はい! 五〇四号室地堂様でございますね! もちろんいらっしゃいます! このお時間ならお部屋でゆっくりくつろいでおられると思いますよ!」


 こちらの問いかけに男は些か食い気味に答える。少々声を張り上げすぎているようにも感じるが必要な情報が得られれば、それはそれほど気に病むことでもない。

 彼は地堂という人物が架空の存在でなかったことに、とりあえず安堵する。礼を言ってフロントを離れようとしたが、背には再び声が届いた。


「はい! そうでございますね! 地堂様はお客様より少し下、二十五、六才ぐらいのお歳だと思います! いつもきちんとした身なりをされてお出かけになりますね! とても上品でお優しい方でございます!」

「え……?」

 彼はその声に足を止めた。再度振り返ったフロントには先程と同じく、にこやかに笑う男の姿がある。明らかに訊ねてもいないことを告げられて惑うしかなかったが、好意的な相手を無視して行ってしまうのも憚られた。


「はい、ええっと、それはそうなんで……」

「ええ、ええ! そのとおりなんでございます! あの五〇四号室の地堂様は鼻つまみ者の糞餓鬼で、わたくしはいつかその尻を蹴飛ばしてやろうと、それだけを日々考えて過ごしているのでございます!」

「えっ……?」

「えっ、てお客様、それは一体どういう意味なのでございましょうか? もしかしてわたくしの言葉が理解できないとでも仰りたいのでございましょうか? 仕方がないのでもう一度言いますが、わたくしはあなた様より少し下ぐらいの年頃の、いつもきちんと身なりと整えた、生意気な口を利く、むかっ腹の立つチビ助の糞餓鬼のことを言っているんでございますよ!」


 彼は相手の言葉に混乱するしかなかった。

 目前の男は辻褄の合わない言葉を当然のように言い放っている。

 今更だがよく見れば、男が纏う制服の名札は殴り書きの線でその名を消され、シャツの首周りには不潔な汚れが染みつき、全体に色褪せたジャケットの袖口は切り裂かれたようにズタズタにほつれている。

 ここは自分がいるべき場所ではなかったと、彼は確実にそう感じ取っていた。

 観察眼が鈍っていただけで、目前の相手が常識とかけ離れた場所にいることは、最初からその暗がりに提示され続けていたのかもしれなかった。


「……え、えっと、もう充分分かりました……どうもありがとうございます……で、ではぼくはこれで……」

「は? あんた、充分分かったって今言ったが一体何が分かったって言うんだ? おれにだって分からないって言うのに、あんたに一体何が分かったって言うんだ! だってあいつは大人なのか子供なのか、ちっとも分からない! しっかり見ようとしても駄目だ! この目を見開いても駄目だ! 何をやっても分からない! おれには全然分からねぇんだよ!」

 急激にいきり立った男は大声を上げると、カウンターに頭部を振り下ろす。

 ごん、とロビーに鈍い音が響き渡り、それは何度も繰り返された。


「ちょ、ちょっと、やめ……」

 彼は相手にやめさせようと声をかけるが、男には既に何も届いていない。

 じきに男の額が割れ、辺りに鮮血が飛ぶ。カウンターに残ったシミの原因にようやく合点がいったが、それだけでしかなかった。


 なんて場所なんだ……。

 彼は心でそう呟くと、逃れるように薄暗いフロントを離れた。

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