零話 暗来客 アンライキャク
1.新慰東京六十六区燐是
気づくと、彼はそこに立っていた。
この国の歴史上に於いても早くに取り入れられることになった重厚な西洋建築、それに伴って張り巡らされた堅牢な石畳の舗道が、見渡す限りどこまでも続いている。その計算し尽くされた景観は誰の目をも瞠るものだったが、それは既に過去形でしかなかった。
湿った風が吹き荒ぶ無人の大通り、静寂が続く車道、ひと気のない建物群。
地区の中心地を見渡しても、寂れたそれらしか目に映らない。
立ちのぼる廃油混じりの下水臭が漂い、湿り気を帯びた石の地面が心をも冷えさせる光景が広がっている。
華やかだったこの街が変貌してしまったのは、二十年前の〝ある出来事〟がきっかけだった。その出来事は街の日照時間を極端に減少させ、季節にかかわらず街全体を過度な湿気で覆う要因になった。多くの日々を必要とせず、住人達はこの地を去った。街の規律を守るはずの行政機関や警察も数年前まで形だけは残っていたが、現在に至っては無法状態と言っていい。
見る影もなく荒れ果てた街の景観を愛でる者など二十年後の今いるはずもなく、現在もこの地に居続ける者がいるとすればそれは酔狂な変わり者か、人目を避けながら息を潜める理由を持つ者しかいない。
「……一体ぼくは、どうしてここに……?」
彼は呟いて辺りを見回す。
湿気を含んで朽ち始めた建物が道の両側をずらりと埋め尽くし、姿は見えなくとも何者の沈着した気配は常に漂っている。いつまでもここに留まれば望まない事態が身に降りかかるのは分かっていたが、棒立ちの脚は鉛を括りつけられたように動こうとしない。
その時ふと、彼は粘り着く視線を感じ取る。目を向ければ相手は悪びれもせず、にやにやと笑みながら近づいてきた。
幾重にも巻かれた首飾りと足元までの派手な色遣いのワンピース。怪しげな占い師を思わせる風貌の白髪頭の老婆。
彼女は目前に立つと咥え煙草を指に移し、「どうしたんだい?」と酷い嗄れ声で訊ねてくる。
咄嗟の返答に倦ねていると、
「困ってるなら、あたしがいい場所を教えようか」
と続けた。
「えっ……?」
「このまま通りをまっすぐ行くと、煉瓦造りのでっかいホテルが見えてくるんだ。そのホテルの五〇四号室にいる
「えっ、あっ、あの……」
呼び止めようとするが、老婆は背を向けると行ってしまった。
彼はその場で再び立ち尽くして、考え倦ねるしかなかった。
何の縁か見知らぬ老婆に一方的に助言を放られる事態になったが、無論それに従わなければならない義務もなく、それを無視する自由も、いかにもよそ者の相手をからかったのだと聞き流す権利も自分にはある。
けれど相手が言ったとおり、困っているのは確かだった。
それに新慰東京六十六区の中でも群を抜いて治安の悪いこの場所にこうしているだけで、常に危険と隣り合わせであるのは分かっている。時が経てば経つほど、身包みどころか命まで取られかねない。
「でも……」
彼は呟きながら自身を見下ろす。
目に入るのは随分と着古した上着にシャツ。その裾にはなぜか血を思わせる赤黒い汚れがついている。両手の爪にも同じものが入り込んで乾いている。
しかしそれらがなぜついたかは分からない。考えれば考えるほど、得体の知れない不安が心に広がっていくだけだ。もし今もこの街に警察がいても、きっと手放しで頼ることに躊躇したに違いない。
彼はしばらくその場で考え込むと、惑いながらも歩き始めた。
自分すらも頼りにならず、それなら希望がミリ単位でもいずれ身を襲う不幸を待っているより動いた方がマシなはずだった。
十数分も歩くと、目的の建物が見えてきた。
くすんだ煉瓦の外壁。鬱々とした曇天の下に佇むその建物は、朽ち果てた要塞のようにも見えた。
入り口に掲げられた黒錆びたプレートには、『ホテル・アスター』とある。それは花の名前だろうかと彼は僅かな記憶を手探るが、結局その姿を脳裏に蘇らせることはできなかった。
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