第56話 祈り

 底へ底へと深く沈みゆく意識の心地良さを感じる。行き着く先は本来の私のある場所。


 あらゆる雑念も届かない、ただ世界を愛し、育まれる過程を見守るだけの、その為だけの『私』へと立ち還る場所。


 世界が育つ土壌を整え、流れを読み、種の盛衰を見、世界の緩やかで忙しない変容を愛おしむ。

 それだけでいい。

 ただ、それだけで良かったのだ。



 ヒトとの関わりは煩わしい。


 彼らは名を知る以上の興味を私に求めた。


 特に多くのヒトを従える者は面倒だった。

 彼らの賢しさは己の領分を越えて私を求めてくる。


 私がそれに応えたところで彼らに利はない。私は私のしたいように、そして世界の為にしか動かない。

 なのにそれ以上の価値があるかのように他に吹聴し、己が野心に利用しようとするその姿は余りにも滑稽。


 彼らは私の目にどのように映っているかを理解していなかった。


 限られた時を生き、子を残し、血を繋ぐそれ等は私たちにとっては種そのものが一つの生き物だ。

 だから私には個にこだわる意味がわからない。

 それは広い荒野に転がる小石ひとつを気にかけるようなものだ。



 ああ、わずらわしい。



 紛れもない本音を零し、嘆息する。



 心の在り方だけでも本来の私に戻してしまえば楽だろうに、それを何かが引き止める。


 それはとてももったいない。と。


 どこまでどこまでも揺蕩いながら沈もうとする意識を小さな棘が引っ掻いた。


 煩わしさを感じ、手を伸ばせば、そこに傷がある。棘はその傷口にこびりつくように生えていて、木の根が地中に浸食するように私の中に深く入り込もうとする。


 常であれば気にもかけず、放っておけば勝手に消えるそれは今回ばかりはしつこい。


 仕方なくその棘を取り去ろうとするのにそれがなかなか上手くいかない。

 己が何か別の器に押し込められているような違和感。本来の私はこうではないと不自由さに苛立ちが募る。


 そうこうしている内にも棘は執拗に内側へ入り込もうとする。触れば痛みを伝え、触れずともその棘のようなものがジクジクと苛み、不快感を訴えた。


 どうすれば良いか。


 苛むそれが傷口を割り開こうとする事に怒りが湧いた。


 そうだ、怒ればいい。


 感情のままに怒ればいいのだ。

 抑えの一切を外し力の限り怒ればいい。


 何故そんな簡単な事が思いつかなかったのか、と疑問に思ったと同時にそれはいけない事だと制止がかかる。


 何故?


 世界は私が怒った程度で揺らぎはしない。いや、多少揺らぐかもしれないが、大した事ではないだろう。


 では何故、と思う。


 世界よりももっと小さな存在ひとつが巻き込まれるかもしれない。


 その奇妙な答えに私は首を傾げる。


 何故?


 また疑問が浮かんだ。


 世界が無事であれば良いだろうに。

 何故その小さな一つを優先して感情を力を『格』を抑えねばならないのか。


 纏まらない意識の中にそのように行き着いた過程があるはずなのに見つからない。


 けれど、ダメだと思うのならそうなのだろうと思い直す。

 理由は後で見つければいい。

 それが取るに足らないものであれば、その時に改めればいいのだ。


 では、未だこの身に不快を与えるコレはどうするか。


 しばし考えた。


 いっそ、傷口ごと抉り、一思いに掻き出してしまおうか。


 そこへと手を伸ばし、指を掛けたその時だった。


 その手を押しとどめるように温もりが私の手を優しく掴みそこから離す。


(?)


 それに抗う事は容易いが、何故か抗う気にはならなかった。


 次いで訪れたのは熱だ。それは炎だった。

 燃え盛るそれは私に熱さを伝えるのに苛みはしなかった。

 むしろ、それが心地よい。

 この身の中に害成すものでないならと静観する事に決めた。


 炎がゾロリと傷口へと侵入し

 傷の内側を苛むそれを一息に呑み込んで消えた。


 不快感が去り、安堵した。再び灼熱が傷を舐めた。熱を感じながら傷口から内側へと注がれていく炎をぼんやりと見つめる。

 胸の内に熱が灯り、こちらの様子を伺うように、じわりじわりとその内側を炙り、不器用に温めていく。


 元来苛烈なそれはそんな性質ではないだろうに、炎が吹き込まれゆらりゆらりと揺れては消える。


 その様はよく知る者を思い出す。


 ああ、そうだった。


 私の中で腑に落ちるものがあった。


 小さな存在ひとつはこれだった。


 これはいけない。


 健気なあの子を消してしまうところだった。


 小さい身ながら鬼の苛烈さを身に宿し、初めて触れたであろう安寧に身を委ねる術を知らず、誘えば戸惑い、怯え、警戒し、そろそろとこちらの安寧を乱さぬように手を伸ばす。


 初めて目にしたのは荒み諦めを含んだ赤い瞳。

 けれど、その奥には確かに己をこのような状況へと追いやった者への怒りと復讐の念が燻っていた。


 触れてやればその目は和らぎを見せた。短いながら共に過ごした時がこの可愛い子の糧となるように願った。




 それから色々あった。

 色々ありすぎた。




 §




 閉じた瞼が押し上がり、ぼんやりした黒い瞳がザイを捉える。


「気がついたか」


 ザイの言葉に答えるように白い腕が伸ばされる。

 彷徨う手を取り眉を顰めた。


「フェイ?」

「ふふっ」


 その唇から無邪気で小さな笑いが漏れる。


「大きくなったなぁ」

「……それなりには」


 どう返せばいいのか迷い、無難に返す。


「大きくなったのに、お前はそういうところはかわらんな」

「どういうところだ?」

「ふふっ」


 フェイはそれには答えず笑いを漏らす。その常にない様子にザイは困惑した。


「そんなにおっかなびっくりせずとも良い。出会った頃の小さなお前を思い出した」


 どこかふわふわした物言いにザイは押し黙る。

 空いたもう片方の手がザイの額に伸ばされ、角に指を這わせる。


「もう少し、小さなお前の側にいてやれば良かったなぁ……」


 角の付け根から指が滑りザイの頬を撫でる。


「小さなお前は可愛かったなぁ。もう少し小さいままでも良かったのだぞ」


 とろりとした、懐かしむようなそんな目でザイを見た。


「フェイ」

「うん?」


 常にない甘さを宿した黒い瞳への動揺を押し隠し、ザイは慎重に口を開いた。


「酔っているか?」

「酔ってない」


 酔っ払いの常套句じょうとうくだ。

 反射的にそう思った。

 こちらの顔を撫でながら、くすくすと笑う様は寝ぼけているというより軽い酩酊状態にあるようにザイの目には見えた。



§



フェイが苦しげに魘され始めたのは眠りについてしばらくの事だ。


起こすべきかと思ったが、上がった手が心臓の辺りに伸び、爪を立てる仕草に不穏なものを感じ咄嗟にその手を掴んだ。


横たわる彼女の服を剥ぎ取り、件の傷を目にしてザイは顔を顰めた。


傷口が黒ずみ、紫煙がそこに絡みつき、内側へと侵入しようとしているのを見て、呪いが活性化している事はすぐにわかった。


銀の御使いの意味ありげな瞳を思い出し、ザイはその傷へと己の舌を這わせ、


蠢くそれを舌に載せ、口の中に収めると様々な事を理解した。この呪いの悪意、指向性、あらゆる情報がこの呪いから読み取れる。何者かがこの呪いに干渉しているのがわかる。この呪いに干渉する相手が何処にいるかもわかる。

生き物特有の怨念の類ではなく、人の作り出した魔術的要素を多分に含んだそれは雑念が少ないだけにのだろう。


オーガ、鬼人は理性よりも本能や直感に関する部分が強い。

だからこそあっさりと相手を捉まえた・・・・

拭い取った呪いをゆっくりとその味を確かめるように口の中で転がし咀嚼しながら頭の中を整理する。


成程、と思う。


オーガとは、鬼人とは、元来こういうもの・・・・・・なのだと理解した。


ゴクリ、と飲み込んだそれは鬼の念と混ざり合い、変質していく。ザイの捉えた呪いを作り出した愚者の元へと返した事の確認を終えると意識を目の前の彼女フェイへと切り替える。


先程までの苦し気な様子はなく、今は静かな寝息をたてている。


あとはこの傷が塞がり、神核が元に戻るように祈ればいい。

その祈りをフェイが受取り、傷を癒す糧とすればいい。


意識がなくとも、自身への捧げた祈りであればその神核たましいが勝手に受け取るだろう、と銀の御使いは言った。


『祈りを捧げる方法は様々です』


そう説明を始めた銀の御使いの穏やかな笑顔が下世話なものに見えたのはザイの気のせいではない筈だ。


呪いを舐め取ったのも、本能的な部分が働いた。


『あなたのやりやすいように


そう言い残して去った銀の御使いは明らかにこの状況になる事を知った上で楽しんでいたのだろうなと思いながらもザイはフェイの胸元、神核があるそこへと己の祈りを込めて口付けた。






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