Ep:02 藤里 景とは誰か

物心ついた時から、

俺の世界は音であふれていた。



俺は耳がいい。街の喧騒けんそう、遠くから聞こえる歌、飛び交う噂話、鳥の声に木々が擦れるさざめき、足元を巡る水路の音。大体なんでも聞き分けられたし、たいした努力も必要なくそれを再現することもできた。


聞き耳を立てているわけでもないのに、さっき通りがかった女子高生の好きな人の名前を知っている。近くの街路樹が久しぶりに手入れされた日には葉っぱが揺れる音がいつもの3分の1ほどになったのがわかる。



よく言えば「絶対音感」

悪く言えば「地獄耳」



聞こえてこなくていいことまでよく聞こえた。知りたくないことまでよく聞こる。もっぱら人の汚いところ。



悪口、陰口、妬み、愛憎、尾鰭おひれの付く噂話。


他人に苦手意識を持ったのもそれが理由だ。耳に入る煩わしさを少しでも打ち消したくて上質なヘッドホンを買い、俺は常に音楽の世界に浸るようになった。人間の噂話よりも、緻密ちみつな音楽に隠されたスネアや裏拍子を聴き取るほうが、よっぽど世界は楽しく、美しい。



絶対音感を活かせば、音楽はいくらでも作ることができた。



他人から勧められてはじめたピアノは随分評価されたが、コンテストで他の参加者が奏でる「美しくない音」を聴かせられることが耐えられなかった。そしてそういう態度を隠すことができなかった俺は「高飛車だ」と周りから嫌われ、結局また人の汚いところがよく聞こえるようになったから、誰かと音楽をするのはやめた。



お前らが目指しているのは美しい音色じゃないのかよ。自分の音楽を自分の品位で汚しやがって。



「そんな汚い音でよく生きられるな」

「あんな外れた音をよく自慢できるな」

「俺なら恥ずかしくて無理だ」



そう言ってやりたい時もあったけど、どうせ面倒なことになるだけだからと口をつぐんだ。耳だけ達者なくせして、口数は少ない人間だ。



高校生の頃に作曲にハマり、匿名でネットに投稿しはじめた。無粋な歌詞などない、ただ音を練り上げて創った旋律。自分が生み出した音がじわじわと世間に広がっていくのは見ていて心地が良かった。たまに誹謗中傷のたぐいと思える言葉を見かけても、大して気に留めなかった。聴きたい人だけ聴いてりゃいいと思うし、嫌なら聴かなきゃいい。



ネットは便利だ。



言いたいことを言いあって下劣な言葉が返ってきたとしても、こちらが目を閉じれば情報は簡単に遮断できる。耳はどんなに塞いでも言葉も音も防ぎきれないからどうしようもない。




俺は普通の家庭に生まれ、並みの生活を送っていた。毎日学校も行ってたし宿題もちゃんとやった。


成績は可もなく不可もなく目立たない生徒だった。闇に沈むこともないけれど光の当たる存在でもない。


可もなく不可もない人間。それでよかった。人間関係は苦手だけど誰に対しても普通に接するように努めた。





そして、高校2年の文化祭の日。

俺にとって転機と呼べる出来事があった。




体育館近くの渡り廊下でぼーっとしていた俺に、女子生徒が突然話しかけてきて「演劇部の舞台を手伝ってほしい」と頼まれた。聞けば、部員のひとりが体調を崩して早退してしまい、今更演出も大きく変えられないと困っていた。


「セリフはなし、ギターを持っているだけでいいから舞台の下手しもての椅子に座っていて欲しい」


それが演劇部の部長を務めた彼女からの要請だった。




演劇部か。



舞台は観たことはないけれど、何かを表現するというジャンルなら面白いかもしれないと少し興味を惹かれ、手伝うことに決めた。



この役を演じるはずだった部員は、本来ならBGMとなるように本番中に「生音なまおと」と呼ばれる音響効果として、舞台上でギターを弾くことになっていたらしい。


舞台裏で慌ただしく事前収録した音源のありかを探している部長に、ギターが弾けることを伝えてみた。言ってから余計なお節介だったかとおもったが、部員達からは喜びの声が湧き上がった。そして全員から礼儀正しく「ありがとうございます」と何度も頭を下げられた。



俺が先輩だからというよりも演劇業界の習わしとして、こういう挨拶はきちんとしているらしい。



小道具担当から渡されたお手製の楽譜とギターを抱え、演出の指示に従って舞台上のベンチに座り、できるだけ顔が見えないようにうつむきながらその時を待った。




開演ブザーの音は、幕の内側で聴くと思っていたよりも大きな音がして流石に少しびびった。




初めて立った舞台の上から見えるものはこれまでにない景色だった。客席にいる人間は誰も無駄口をきかない。その目はひたすらに舞台の上に注がれ、たまにどっと笑いがおこり、時には静かに泣いていて。いつも騒がしくしている陽気な人達ですら、静かにこの世界を眺めている。



こんなにも静かな「人の感情」をはじめて聴いた。



決められたセリフをなぞりながらもそこにリアルタイムで生まれる感情を乗せながら物語は進んでいき、役者は舞台の上で別の人間になっている。開演のブザーと共に幕が上がり、再び閉まって歓声と拍手が湧き上がるまでの約1時間。この世界は見えない壁で世界ごと分けられていた。



演奏そのものは難なくこなして本番を終え、俺は幕間まくあいには出ずにそっと舞台を降りた。体育館から出る間際、振り返ってさっきまで自分がいた舞台を見上げた。毎週の朝礼で、校長が長々とくだらないことを話しているのと同じ場所のはずなのに、まるで違って見える。俺にとっては聖地だとすら感じた。



これまでネットに垂れ流していただけの音楽を、この舞台の上で鳴らすことができれば、もしかしたらそれが世界のひとつになるのかもしれない。



静かな音が鳴り響く世界をようやく見つけたんだ。



演劇部からは何度も丁寧にお礼をされ、これからも手伝って欲しいと勧誘を受けた。団体活動が苦手だから入部自体は断ったものの、舞台という存在の魅力には抗えず、時折舞台用の音源を作ってやるようになった。


リアリティを出すための違和感のない効果音の使い方や、どこでどんな音が聞こえるかについて意見をわれれば、教えることはいとわなかった。


たかが高校生の部活と思っていたが、彼女らは真剣だった。




公立高校は金がない。舞台用品を揃えるのも小道具を買うのも金がいる。私立が金の力であっさり作る大道具もここにはない。だからこそ「抽象舞台」を目指す。最低限の木箱を駆使して世界を創造し、それを観客に想像させる。そのためには演技と音響照明の技術が必要だ。


彼女らの熱量はいつしか俺の身体に移り、自分の音に身体の動きを合わせてみたくなった。その時にはもう、俺の心はとっくに演劇の虜になっていたのは言うまでもない。




高校を出て、芸能分野を中心に扱う美術系の大学に進んだ。舞台芸術と音楽関係の講義に出来るだけ多くの時間を費やし、それ以外の必修科目はスレスレで単位をかすめ取って卒業を果たした。




ただひとつ、問題があった。




俺のもつ「音の理論」が、必ずしも教授やクリエイターたちに受け入れられるものではなかったことだ。演技に関しても同様だった。悲しいシーンであからさまな旋律を流すこと。演者が乗せる感情を無視して音楽だけで観客の感情を誘導しようとする。とにかく不自然で、自分が音に操られている感覚が気持ち悪くて仕方なかった。


自分より偉い立場の人間と意見がぶつかり「自分の創った音を書き換えられる」という果てしない屈辱を味わった。このほうが人気が出るとか、君の旋律は一般的ではないだとか、悲しい音楽のときは悲しい顔をするもんだとか。




誰が決めたんだ、そんなもの。

くだらない。そんなの、くだらないよ。



それは俺の創りたいものじゃない。

大衆が求めるものなんて関係ない。

世界に当たり前に存在する音を作品にしたい。




もっと聞けよ、世界の音を。


世界はこんなにも音に溢れているのに。


あんたらの耳は飾りなのかよ。




そうやって自分にとっての「舞台芸術における音の価値」を模索し続け、失望する日々を繰り返しているうちにひとつの決意が練り上げられた。



俺が俺らしく俺の世界を表現するためには、

俺が「奏でて、演じる作品」が必要なんだ。

どちらかだけじゃ、足りないんだ。


この世のどこにもないのなら、どんなに孤独になったって自分の世界を大切にしよう。1人で演じて音を出すしかないというならそれでもいいと腹を括った。初めて舞台に上がったあの日みたいに、俺が世界の音を創る。演者の感情とリンクする自然な音と旋律で。俺の音をわかってくれる役者をいつか見つけて、そいつと本物の作品を創ってやろう。




誰に知られなくてもいい。



俺が俺らしくあるために

その日から「音響エンジニア 藤里 景ふじさと けい」と

そう名乗ることに決めたんだ。

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