脳裏の君

マニマニ

脳裏の君


 さて、そいつをどうやって出来るようになったのかなんて全然覚えてないし、他の人が出来ないなんて考えたこともなくて、ただそこにあるものやここにあるものを正しく出力するだけの作業になんら苦労を感じない。別に本物がそこになくとも本物そっくりに示すことができるし、それがそのうち本物に変わることがあるのも知っていた。つらくもない。苦しくもない。咀嚼のように、呼吸のように、自転車の乗り方や母語の発音のようにただそこにあるものを正しく出力するだけで良い。


 正しさがあるとすれば。

 正しさとはとても難しくてこの目に映す角度が変われば全く違う様相を示す。光線を折り曲げて折り曲げてこの脳の裏に焼き付けているから本当は何もかもが逆さまなのにそれを正と見る。その光たちはあまりにもこの脳の裏側を焼いたからどうにもそれ以外の形というものがわからなくて、形容しようにも言葉が見つからない。みんなの脳の裏側はどんな風に焼けてるのか開いて見せて欲しいくらいだ。わからない。わかるわけがない。どうやって出来るようになったのかなんて全然覚えていないからどうして出来ないのかもわからない。


 理解が及ぶとすれば。

 逆さまに突き刺さる光線に焼かれた脳を抱え、件の焦げ付きに似たものを探してふらふらすれどもその形が屈折しているのか凹凸があるのか人なのか犬なのか猫なのか言葉たちなのかも判別できなくなってしまった。言葉をもって理解したものは、目の前になくとも本物そっくりに示すことができるけど咀嚼にせよ呼吸にせよ自転車の乗り方にせよ母語の発音にせよ言葉を尽くすのが馬鹿馬鹿しくなる。しかし体をもって理解なんて俺にはとてもできない。理解が及ぶとすれば、もしわかるとすれば、この脳の裏側はおまえの形に焼け焦げている。

ばかいってんじゃねえよ。


 まがい物のミントの匂いがする。

本物のミントはもっと青臭くて、むっとするような匂いがして、普段そこかしこで見られる象徴としての爽やかさはその奥に少しだけ見いだせる。今鼻先を掠めたミントの匂いの奥には野暮ったいたばこの匂いがした。居酒屋の店内は人で溢れていて、各々さまざまな匂いを撒き散らしている。香水、煙草、料理由来の食欲を掻き立て終わった混ざり合う匂い……。その中から律儀に嗅ぎ分ける鼻には我ながら恐れ入った。きっと近くの席の誰かがミントガムを噛んだに違いない。同席者のいない、開けた視界をぐるりと見回して、見知った顔はひとつもないことを改めて確認する。

これは市谷が一服して来た時の匂いだ。

スイッチを入れたようにこの5年間幾度となく繰り返した記憶が蘇る。勘弁してくれ、まだ生きてたのか。


 おかえりなさい、と同期の女の子が言う。人好きのする笑顔で答えるこいつが煙草を吸う時に少しだけ眉をひそめることを、彼女は知っているだろうか。息を吸うように吐き出されるリップサービスに上機嫌になった彼女を眺めていると、少し意地の悪い気持ちになってくる。

べつに彼女のことは嫌いじゃない。彼女……長谷さんや、市谷が気を遣う相手はしかし、全員等しく、見てると意地悪な気持ちになってくる。以前そんなことを言ったら市谷はニヤリと笑って言った。

「辰哉さん、おれのこと好きすぎでしょ」

 市谷はまだこの前の秋に20歳になったばっかりなのに酒も煙草も馬鹿みたいに消費する。酒については俺も人のことは言えないが、彼の財布の嗜好品を占める割合の大きさにはさすがに驚いた。彼は法が許した途端に憧れのロックスターと同じ銘柄を吸い、くらくらする、と俺の目をみて言った。俺は煙草を吸うといつもそうなるよ、とだけ言って水を差し出した記憶がある。その処置が正解かどうかもわからない。だって俺だったらもう一杯ハイボールを頼む。

 はじめは明らかに憧れのために吸っていたそれが本当にストレス発散になり始めたのは俺たちの仕事が段違いに増えた冬の始めの頃からだ。頭の回転の素晴らしくいい彼が長谷さんの仕事ひとつひとつの後始末をして、当の長谷さんがそれに気づいて更に手を抜くようになってからだ。彼女はそれを信頼と言うが、俺には痛めつけているようにしか見えなかった。カフェインとニコチンとアルコール、それを中和するにはあまりに少ない食べ方をするようになった市谷に彼女は気がつかない。それを彼女に直接伝えた俺を市谷は冷たい人と言った。咥え煙草で、眉をひそめて。俺はお前のためを思って、言いかけたところで最近別れた彼女の口ぶりにそっくりであることに気がついた。散々迷って引っ張り出したのは苛立ちを隠しきれない「そうかな」の一言だけだった。


 長谷さんは市谷のことをいっちゃんと呼び、俺のことは高木くんと呼ぶ。なんなら俺のいないところでは呼び捨てだ。多分俺が彼女に良い印象を持っていないことは周りにも本人にもバレてるし、市谷にはそのことで何度か愚痴ったことがある。彼女の仕事の不手際が俺たちの距離を縮めたと言っても過言ではないだろう。それでも市谷は俺が長谷さんに直接文句をつけたことに顔を曇らせる。陰口に終わるよりかはいくらかマシなはずだ。

市谷は卑怯だ。状況があったにせよ彼女の後処理は市谷が自分で始めたことだ。お前が始めたんだから文句言うなよな。

そうは思うものの、どうにも市谷に直接言うことは出来ない。女の子には言えるのに?と萩原さんに笑われたのを思い出す。

 萩原さんは俺たちインターンの後輩にあたる。俺と市谷と長谷さん全員より年上で、インターンの中ではもちろん正社員の面々よりも大人びている。前者はまだしも、後者と彼女は同い年か年上のはずだ。聞けば彼女の同期の方がよほど派手なナイトライフを送って来たらしいが、彼女の方がずっと濃い夜の匂いがした。

 市谷は萩原さんのことが好きだった。彼女が喫煙所に向かうのを見ればいそいそと追いかけ、二つ先の駅まで歩くと言えばついて行った。それはもう大好きだった。

「高木くん、女の子だったら多分私よりもずっと怖い子だよ」

にんまりと人工のバニラの匂いのする煙を吐いて彼女は言う。どうしてと訊けば「だって私にカマかけたでしょ。長谷さんとこいつ、お似合いじゃないですかって」と返してケラケラ笑った。

意地の悪い気持ちがまたやってくる。彼女は市谷が眉を顰めて煙草を吸うことも知ってるし、使っているジッポが貰い物であることも、そもそも喫煙自体が憧れから始まっていることも知っている。そう考えるとこの気持ちをどこへやればいいかわからなくなって結局黙り込んでしまった。

「怒った?」

「べつに」

「ごめんね」

「いやいいんで」

「もう一杯飲む?」

「のむ」

 彼女はニカリと笑ってすみませーん!と店員を呼びつける。手際よく注文を済ませる様子を見て、こいつが男だったらどんなに良かっただろうと思う。彼女は市谷によく似ている。頭の回転の速さも、作り込んだ人当たりの良さも。そういえば、市谷を置いてどこか遠い国に行った彼の前の恋人も市谷みたいな女の子だった。


 断片的な記憶は強烈に焼き付いているようで幾度となく、欠落もなく繰り返される。

この後、つまり萩原さんとサシで飲んだ後から市谷は俺を拗ねた目で見るようになった。萩原さんはそれを心底楽しんでいるようで、「あの時に話したでしょ?」と歌うように言う。その度に市谷は、今まで向けたことのない暗い、湿度の高い視線で俺を射抜いた。ある日の仕事終わりに居酒屋へ連れ込まれ、尋問のように萩原さんとの会話を洗いざらい吐けと言われた日にはそのままどうにかしてしまいそうだった。

 ああそうだ、あの時文字通り洗いざらい吐いてしまえばよかった。

 俺は毎晩お前の薄い腹や胸元を撫でて仰反る首を噛む妄想をしている。痩せた顎のラインに舌を這わせて、耳の裏に鼻を埋めて汗の香りを吸い込む。若い体に似合わない煙草由来の渋い体臭がたまらない。腰骨をなぞりながら膨張した性器を擦り付けるとお前は陶然と瞬きをして息を吐く。

今でもそれをネタにしているわけだ。馬鹿馬鹿しい。

 欲望を撒き散らす脳みそを無視して話せば、市谷の顔がみるみる明るくなった。

呼びかけたらちょっと目を見開いてこちらを向くところがかわいいってさ。

考え事してる時、唇がすぼまっちゃうところも好きだって。

いつも柔軟剤の良い匂いがしていて、抱きしめたくなる時があるって言ってた。

それから、それから……。

 相手を喜ばせることだけに従事すると良いことは一つもないのに自傷のように口を動かしていた。萩原さんは「彼、かわいいよね」としか言わなかった。少し下にみた、犬や猫に向けるような雰囲気のそれが俺には大層腹立たしかった。彼女が本気で夢中になっていたら、そうしたら俺はこんなこと言わずに済んだのに。

「辰哉さん、俺辰哉さんのこと大好き」

ラガービールを景気良く飲み干して、満面の笑みを浮かべる市谷をきっと俺は忘れられないだろう。


 「お待たせ」

男は恵まれた体躯を持て余すようにガタガタと音を鳴らして席に着く。揃った前髪で強調された目が人懐っこく微笑みかけていた。

「そんなに待ってない」

急に5年前から引き戻された混乱を抑え、顎を上げて彼を見る。

「あーごめんって、怒んないで」

彼は俺をよく見ている。些細な表情ひとつで機嫌を把握することが出来たから、俺はそのままそれを使って茶化してばかりいる。

「貸しひとつな」

ひでえ!と喚きつつメニューを捲る彼を尻目に店員を呼んだ。はぁいと端まで響く返事をすると客の間をかき分けるようにしてこちらに進んでくる。

「え、待ってまだ決めてない」

「生だろ」

「ちげーよ食い物だよ」

「ポテトサラダが美味いよ」

「それお前が食べたいやつじゃん。あ、でも明太子乗ってる」

「ほらぁ、美味そう」

「たしかに」

彼は店員が来てもスマートとはとても言えない段取りで注文を済ませた。えっと、えっと、と繰り返す様は見た目よりも幼く、じゃあお姉さんのおすすめは?と尋ねる様は妙に手慣れていて遊び人の片鱗を見せる。くるくる変わる表情はある程度意識してデフォルメされていた。

 彼は目立つ。180センチを超える長身の、頑強な印象を与える骨格には無駄のない筋肉がついている。学生時代は何かしらのスポーツに打ち込んでいたらしい。鎖骨まで届く毛先は思いの外手入れされており、やや明るいアッシュブラウンに染められていた。前髪は目のすぐ上で揃えられていて、美しい目元を強調している。この手の髪型をする男の知り合いがあまり多くないのもあって似合うか否かの判断すらつかない。個人的には好ましいとは思うが特異な目で見られることも多いだろう。曰く好きな格好をしているだけだそうだが、それでも常に人の気を損ねないように頭を動かしているのが見て取れた。思い切ったことをする割に、必要以上に周囲を気にかけてしまう性分が強く出ている。


 ミントの匂いに引き摺り出された記憶を振り払うようにグラスを煽る。最初の生ビール以外はハイボールばかり注文した。濃い目でと頼むと店員は困った顔をする。まあいいですよ、薄かったらまた頼むから。適当に言うと店員は些かほっとしたようだった。ジュンは濁った目で生ビールの半分残ったグラスを見つめている。店員が去った後、ジュンはその大作りの唇で何か言っている。騒がしい店内では意識を向けないと聞き取れない。酒で散漫になった状態では尚更だ。ぼやけた視界で適当に相槌をうちつつぼんやりと彼を眺める。つくづく美しい造形をした男だ。彼は俺の何が良いんだろうか。卑屈に思うわけではなく、純粋な疑問を感じる。

「辰哉はさあ」

「なに」

唐突に彼は声量を上げた。周囲のざわめきはさして気に留めないが自分の意識が思い切り寄せられるのがわかる。

「たまにおれの話何にも聴いてない時があるじゃん」

ぎくりとした。彼は紅潮した顔に頬杖をついて、目を伏せたまま唇には上機嫌なほほ笑みをたたえている。

「こっち見てんのにさ」

うまく答えられないまま黙ると彼は視線を上げた。密度の高いまつ毛に縁取られた切長の目が俺を射る。

「誰のこと考えてんの」

よく知る目付きだった。俺がよく萩原さんに向けていた目と同じに違いない。ぎこちなく微笑む。これはあくまで安心させるための仕草だ。そんなことは彼にはバレているだろう

「お前のこと」

は、なんだそれ、と彼が吹き出す。一瞬だけ過った失望に似た悲しみを俺は捉えてしまっている。

「あーあ、訊いて損した!」

すっかり温くなったビールを飲み干すして、飲まなきゃやってらんないね!と店員を呼ぶ様に少しだけ救われた。


 彼、ジュンとは悪名高きマッチングアプリで出会った。

 俺はインターンを辞め、大学を出てからエンジニアとして働いていた。そこそこフレキシブルに働けて、収入も悪くない。今思えば遊び相手を探すにはうってつけだ。何はともあれ市谷をネタに自慰にふけるような夜から逃げ出したかったから、性別に関わらず後腐れのない関係をいくつも持った。ジュンもその1人のはずだった。

 ジュンの容姿は当時の好みには合致しなかった。市谷の面影を追い続ける俺は痩せて骨張った体付きの、華奢な顎をした前髪の長いミディアムヘア(女性であれぱショートヘアにあたる)の小柄な人物ばかり抱いていた。彼はここから大きく外れている。マッチングが成立したのはミスでしかない。奇しくも雑談程度の会話が続き、いざ会ってみて初めて、俺に笑いかけた彼の表情が市谷とよく似ていることを知った。

 ジュンは酒に弱くビールであっても一杯をちびりちびりと飲む。

 ジュンはタバコが嫌いだが喫煙者の10分程度の休憩にあやかりたくて購入を検討している。

 ジュンは燃費が悪く驚くほどよく食べる。

 ジュンは集団の中ではうまく話せない。

ジュンの持つ枕詞に"市谷と違って"がつく全てを以てしても、この笑顔は俺を市谷に引き戻す。

かつて市谷がそうだったようにジュンはあらゆる遊びに俺を呼んだ。話すことがなくても呼び出した。ただ違うのは彼の仲間内に友人として俺を引き込みたがっているということだ。


 事が起こったのは確か、ジュンの友人の1人が主催するDJイベントで、金曜日の夜だった。その日は馬鹿みたいに飲んで、まだまだシラフのジュンが困った顔をしていた。

結果から言えば俺はジュンに抱かれた。俺が一人で眠るのは嫌だと駄々をこねたからだ。

「俺さあ」

「なに」

シャツを引っ掛けただけの格好で白みはじめたベランダでタバコを吸っている。湿った夏の空気は紙巻きを湿気させてしまいそうだ。

「一人が嫌だって思ったの、初めてかも」

「……初めての話をするならそっちじゃないんじゃね?」

「それな、俺も思った」

ふは、とジュンが笑う。柔らかい笑顔だ。市谷のことを思い浮かべるが、あまり似ていなかった。あいつはこんな風に俺に笑いかけない。

「嫌じゃなかった?」

「うん」

「俺と寝るのも?」

「お前に抱かれるのも」

「……1人が嫌だと思うのも?」

「悪くないね」

「そっかあ」

「うん」

寂しさでできた穴が塞がれるのは久しぶりだった。こんな穴が空いていたことすら気づかなかったが、回復の手立てがあるならそれも悪くなかった。自分が与えてやらなければと思う間も無く、ジュンが惜しみなく差し出す快楽に夢中になっていたように思う。

風向きが変わった。タバコの煙がジュンの方へ流れる。長い髪が顔にかかっている。鬱陶しそうに首を振るジュンを止めて、顔に張り付く毛束をそっと避けてやった。細い、絹のような手触りのそれは汗を含んで重たく靡いていったのを覚えている。


 手に入らないものはあまりない。俺があまり高望みしないからだ。

恋愛の性質を持つ人間関係においても変わらない。高望みしなければ容易く手に入るものだ。しかしそいつをどうやって手に入れるのか、その方法は毎度覚えてないし、同時に他の人が出来ないなんて考えたこともない。ただそこにあるものやここにあるものを正しく出力するだけの作業と変わらずなんら苦労を感じない。別に本物がそこになくとも本物そっくりに示すことができるし、それがそのうち本物に変わることがあるのも知っていた。つらくもない。苦しくもない。咀嚼のように、呼吸のように、自転車の乗り方や母語の発音のようにただそこにあるものを正しく出力するだけで良い。それだけのことで得られるものになぜ人々が必死になるのかまるでわからなかった。

今ならわかると言えば白々しいほど必死に一夜の関係を持った。即物的なものは高望みしなければ容易く手に入ることに間違いはない。しかし本当に求めたものが一体なんなのかわからないから市谷は手に入らない。あの時欠けていたのは自分が見たいもの以外のものも見ようとする決意だったことに気づくのはずいぶん後になってからだった。


 「辰哉」

長い髪がしずくを滴らせて覆い被さる。占拠された視界の中で窓から入る街灯の弱い光を受けて目ばかりが底光りしていた。

珍しく3杯ほど飲んだジュンに促されるまま部屋に上がり、まただらだらと缶ビールを開けた。彼の部屋は未完成の服が散らばり、型紙なのか型紙の切れ端なのかわからない紙片があちらこちらに落ちている。どうしても気になるそれらを手に取れば捨てないでねと家主から声をかけられた。それが手に持つ紙のことなのか、この関係のことなのかは分からない。

「また俺のこと考えてんの」

「ああ」

唇が触れそうな距離でジュンは拗ねた目をして言った。

「言えないこと?」

「いいや」

「それじゃあ、そういうことは言葉にしなきゃ」

目は言葉よりも雄弁だ。行動で示そうとして、それがどれだけ誠意を欠いた行為かを思い出す。引き締まった背に腕を回して強張った頬を自分の首元へ押し付ける。Tシャツの片口が冷たい。ピアスの空いた耳に唇を押し付けて囁いてやった。

「俺はお前を捨てないよ」

これが正しい回答かどうか、今でも分からない。ジュンはソファに埋まる俺の体を殊更に抱き締めた。縋り付くような、しかし遠慮のない重みは彼を満足させる回答だったからだと信じたい。


  正しさとはとても難しくてこの目に映す角度が変われば全く違う様相を示す。光線を折り曲げて折り曲げてこの脳の裏に焼き付けているから本当は何もかもが逆さまなのにそれを正と見る。その光たちはあまりにもこの脳の裏側を焼いたからどうにもそれ以外の形というものがわからなくて、形容しようにも言葉が見つからない。みんなの脳の裏側はどんな風に焼けてるのか開いて見せて欲しいくらいだ。わからない。当然だ、本当はわかる必要もない。どのような言葉や態度や、あらゆるもので焦げ付きを表現するのか、その選択の連続が重要なのにそんなことも容易く忘れる。

 逆さまに突き刺さる光線に焼かれた脳を抱え、その焦げ付きに似たものを探したところでその形が屈折しているのか凹凸があるのか人なのか犬なのか猫なのか言葉たちなのかも判別できない。言葉をもって理解したものは、目の前になくとも本物そっくりに示すことができるけど咀嚼にせよ呼吸にせよ自転車の乗り方にせよ母語の発音にせよ言葉を尽くすのが馬鹿馬鹿しくなる。当たり前だ。俺の場合はこの焦付きを形容したところで何にもならない。それは過ぎ去った恋の、あるいはおざなりに与えた欲望の形をしている。

今目の前にいる相手に言葉や態度やあらゆるものを尽くして伝えるべきなのはこの脳の焦付きが何たるかなどではなく、お前から何を受け取ったのかという一点だけだ。


「俺はねえジュン」

窓を開ける。部屋の空気がぐるりと蠢いて出口に向かう。もう一つの窓を開ける。のたうつ蛇のようだった空気が蜘蛛の子を散らす様に逃げていく。

「なに」

ジュンは事後の気だるさを隠さない。空気が入れ替わっても彼の中の行為の残滓は消えないようだ。

「多分俺さ、司祭とか神官とか、その手の仕事をするのが向いてたんだと思う」

「突然変なこと言うよね」

もっとも、睡魔には抗えず、半分眠った目が重たそうにこちらを見やる。額に張り付いた髪を退けてやる。重い絹の手触り。

「それで?」

「ん?」

「向いてたんでしょ。今から転職する?」

「向いてた。今はもうダメだ」

「年齢的に?」

「いや、もう俺なりに解釈しちゃったからさ、経典とか拝めないわ」

俺にはあらゆるところから市谷を見出せることがわかった。敬虔な信者があらゆるところに神を見出せるように。

市谷に愛されなくとも生きていけることもわかった。それなら別に神に愛されなくとも生きていける。

焦がれる恋をせずとも与えられる愛に応えるのが苦痛でなければそこが安全基地だ。

「気持ち悪う」

「俺もそう思う」

いいからさ、とジュンがベッドを叩く。

「寝なよ」

大人しく腕の中に収まる。さようなら神様、俺はあんたを彼に語らない。清潔な空気を吸い込んで、迷うことなく瞼をおろした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

脳裏の君 マニマニ @ymknow-mani

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ