第10話 懇願〜在らん限りの愛を込めて
「あっ、また来てくれた」
稼ぎ頭の彼女が言った。二周目のこと。定期公演ではスタッフもそれほど多くはなく、チェキ会は物販と並行してメンバーは半分ずつ入れ替わり制になっている。
そのときの人手にもよるが、大抵は二、三周で後半組と入れ替わってしまうのがほとんどで、おれに残されたチャンスはあと一回か二回ほど。それなのにあまりに魅力的なパフォーマンスだったせいか、今日に限って〝みーちゃん〟の列には人だかりができていた。
「いや、何周でもくるよ。なんなら次回以降の券も買う。さっきれいらちゃんと話したんだ」
「えっ、何を?」
「みーちゃんが稼ぎ頭だって」
おれが振り返るとそこには揺れる紫のリボンを目当てにまだ多くのファンが並んでいた。会場は完全撤収の時間が決まっているのでチェキ会が延長されることはほとんどないが、これでは満足しない人も出てくるだろう。
「えー、嬉しい! なんか、みんな余ったチェキ券無理に使ってるんじゃないかって不安になってたところなの」
「いやいや、なんで? そんなこと絶対にないから」
全く、あれだけ頑張り屋のくせしてどうしてそんな発想に至るんだか。おれは思わず笑ってしまう。
「ほら、カメラさんの後ろにいる人たち、みんなみーちゃん推しだよ」
おれはまた例のポーズを決め、カメラに視線をやりながらもその背後で待つファンたちを指して言った。
「あっ、ありがとうございます――えー、だとしたらわたし大人気じゃない? 一、二、三、四……数えきれない」
チェキを受け取るとき、〝みーちゃん〟は写真を撮ってくれたスタッフさんにもきちんと毎回お礼を言う。
「なんて書こうかなぁ」
そしておれにはアイドルになる前からの知り合いみたいに特別柔らかな表情を浮かべてくれる。
「ね、みーちゃん。今はさ、この会場だからこのくらいだけど、ちゃんと日本中の人がみーちゃん――愛甲美颯って子を知ってもらえたらきっとこの列が何十倍にもなると思うよ」
おれは自分のサインの横にハートを書き足す愛らしいその横顔を見ながら、さらに言う。
「約束……だからね。そうなるまでずっと君を推しつづけ――」
「よしっ、できた!」
〝みーちゃん〟があまりにふいのタイミングに頭を上げるので、思わずおれはのけぞってしまった。その瞬間、〝れいらちゃん〟とは違ういい香りがする。ああ……どうしてこんなに可愛いんだろう。その香りがまたおれの頭をくらくらと混乱させる。
「ユウさん、特別にハートいっぱい書いたの。どつかな?」
「……う、嬉しい」
約束の話をしたかったのに、そんなふうに目を見られると涙が出そうなほど嬉しくなってしまう。前回の今日にはなかった気遣い。〝みーちゃん〟のことだから、意図的に約束の話を避けているわけではないだろう。
「ずっと大事にするね」
「うん。ありがとう」
そろそろ制限時間だ。おれはチェキを受け取ると自分から彼女のもとを離れた。だが、いざ振り返って見てみると、並んでいるファンの数はやはりかなり多い。
手元には〝みーちゃん〟のカラーである青で、在らん限りのハートが書かれたチェキ。
おれの脚は小さく震えていた。何事もなく前に進むべきというファン心理と、これを逃したらもう面と向かって話すチャンスはなくなってしまうという恐怖。
撮影会でも多少は話す機会もあるのだが、チェキ会のように少ない時間でもツーショットで話すという機会はなかなかない。
そうしたらまた、さらさらした砂や綺麗な水のように彼女はおれの手から消えてなくなってしまうかもしれない。
そんなのは、いやだ。
「みーちゃん!」
おれは言った。突然の大きな声に会場内が静かになり、その次の瞬間には静寂がどよめきになって広がっていった。
普段はファンとの信頼関係で、「剥がし(握手会やチェキ会で時間制限やマナーを守らないファンをアイドルから遠ざけること)」をめったに行わないスタッフがおれを手で制していた。
だが、おれの視線の先にいる〝みーちゃん〟は違った。すでに次のファンからチェキ券を預かっているところだったようだが、大きな瞳はこちらに向け、しっかりとおれを見ていた。
嫌われたって構わない。そう思ったけれど、その瞳に恐怖や不信感は全く浮かんでいなかった。ただただ真っ直ぐ、こちらを見ていた。
「約束……だからね。未来に向かって、君とおれたちファンとで、一緒に……一緒に成長して――」
「すいません。下がってください」
目の前に出されていた腕に力が籠る。
嫌われたって構わないが、〝みーちゃん〟だけではなく、彼女たちに迷惑がかかるのは本意ではない。おれはやむなく二、三歩後ろに下がり、
「申し訳ありません……」
と告げて踵を返した。
スタッフも頭を下げるとそれ以上は何も言ってはこなかったので、おれはそのまま会場内のトイレに向かった。
〝こなっちゃん〟の列に並んでいた江口さんが心配そうにこちらを見ていた。でも、少なくともおれはこれで満足だった。
あの瞬間――約束の話をスタッフに遮られたまさにあの瞬間、〝みーちゃん〟はおれにしかわからないくらいだが、確実に頷いたのだ。
〈約束、覚えているよ。もちろん、成長していこうね! その時までずっと推しでいてね〉
まるでそう答えるみたいに、確実に頷いたのだ。
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